日常茶飯ばなし 100

竈と倭(24・最終回)

2013年10月17日

 いよいよ最終回です。若干の蛇足を加えます。

 倭をヤマトと読むのは、「山の入り口」を意味する普通名詞に由来することはすでに述べた。しかし、おそらくナラと同義またはナラを包括することばとして、九州北部で固有名詞化し、ナラとともに大和盆地に移動していったに違いない。では、「倭」の語義はなにか、というさらに根本的な問題があるが、これについてはすでに先学の多くの指摘がある。

 代表的な説のひとつは「われ」とか「わが」というときの「わ」を漢字化したものだろうというものだ。自称ないしヒトを意味することばが、他言語を用いる人から特定の民族名と誤解され伝承された例は多々ある。アイヌも本来ヒトの意だ。日本列島に住む古代の人たちが漢だの魏だのを訪れて、自分たちのことを「わ」といい、それが先方で民族名として捉えられたというのはじゅうぶん考えられることである。

 ついでにいうと、「カラ」ということばがある。よく「唐」の字が当てられるが、「韓」もカラと読む。これは自分サイドの「われ」に対して「かれ」というときの「か=向こう側」にラがついた語だと思う。したがってカラは海外国くらいの意味であるが、かつての日本列島人の主要な外国が朝鮮半島か中国大陸だったので、韓と唐の訓としてカラということばが残っているのであろう。

「倭=自称〈わ〉」説には批判もある。倭と委は同語でイと読むべきだという説もある。さらに、イは伊都(怡土)で『魏志』などにもみえる九州北部の地名だとする解釈がある。これだと金印の「委奴国」は「イにあるナ(ヌ)というラ」という読み方もできよう。このあたりのことは参考文献にあげた石原道博編訳本の解説が簡潔にして要を尽くしているので、関心のある方はご参照ください。

 ヤマトに、倭ではなく、大和の字を当てるようになった次第については、日本が倭の字を嫌って日本と自称するようになったと、中国の史書にもあることから推定できる。倭という字は「従う」とか「醜い」といった意味がある。いずれにせよヤマトが主体的に選択した字ではないから、日本という国号を使う以前に倭を音通の和に変え、さらに大を加えて大和としたものである。正倉院文書に大倭と書いて「やまと」と読み、「おおやまと」とも読む場合があるのはそのあたりの経緯を物語っていよう。日本と大日本のようなものでしょうか。

 この一連の連載で私のいいたい骨子は右のごときことです。以下は少し言い訳めいた「あとがき」とお考えください。

 拙論は、邪馬台国の所在については直接関係しない。邪馬台国論争では、ご存じのとおり畿内説、九州説をめぐって長く熱い論争があり、老生ごときは過去の議論をたどることすら容易ではない。拙文は、ラを手掛かりに、大陸側からみた日本列島認識は九州北部から出発したことを再確認したに過ぎない。

 途中、済州島についてながながと書いてしまったが、それはこの島が独立性を保ったラとして最後まで残った地域で、多分に伝説的・神話的部分を含みつつも、ラの誕生と、まさに「山島に依りて国邑をなす」その成長、そしてより大きな中世国家に吸収される消滅過程がよくわかる事例だからだ。個人的興味で本旨に関係の薄い部分まで筆が走った点はお許し願いたい。チェジュは生来無口な老生のような人間をも多弁にする不思議な魅力があるようです。

 タイ語に「ムアン」ということばがある。日本でいう郡・県も意味するが、ムアン・タイといえばタイ国全体を指す。人の集る場として大小のムアンがあり、それらが集まって国ができあがっている状態がよく表われたことばである。漢字化が進んだ地域では、国家が拡大していく前の状態をことばから捉えることがむずかしくなっているが、タイ語のムアンにはなお地域が国に統合されていく歴史的経緯の記憶が残存している。ラにはムアンと同じような歴史的実体が内包されているのではなかろうか。

 しかし、ムアンと違ってラは、日本語ではムラやカラ、そしてナラなどの単語にかろうじて痕跡を遺すのみで、政体としては国という漢語にとって代わられた。その点からすると、韓国・朝鮮語のナラはよく古体を存しているのかもしれない。

 

 ながらくこのコラムをご愛読いただいた読者の方がたに感謝申し上げます。東アジアの食器や食具、チェジュやラなどの問題についての小論は、なお生煮えの状態で、いい料理としてご提供できなかった点が多々ありましたことをお詫びいたします。近年の韓国西海岸の水中調査で竹製のハシが引き揚げられています。これらの問題は、これからも調べながら考え、機会があれば再論してみたいテーマ群です。

 デザインをお願いした岡本デザイン室、それに岩瀬直樹さん、イラストを寄せてくださった井下真由美さん、おぶみ・りょうきちさんにもおおいにお世話になりました。いちいちお名前はあげませんが、編集部の方々にはお世話になりっぱなしだったことはいうまでもありません。100回の長丁場は、これらの方がたの支えがなければ続けられなかったことは間違いありません。どうもありがとうございました。

【参考文献】
石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』岩波文庫 1985

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勝手におすすめ展覧会(33・最終回)

出光美術館『古染付と祥瑞ー日本人の愛した〈青〉の茶陶』

2013年6月6日

 16世紀末から17世紀初めの一時期、日本の茶人たちが海外に茶陶を注文する風があったらしい。朝鮮半島、中国がその注文先である。ベトナムにも注文した可能性がある。おそらく、文禄・慶長の役の後、鎖国が始まる前、束の間の“国際平和”的ともいうべき出来事であった。

 室町時代にさかんだった中国産陶磁の茶陶としての使用が桃山時代には減少し、かわりに朝鮮産の陶磁器から美濃だの唐津だのといった国産品が主流となっていった。しかし舶来品好みは日本人の骨がらみになっているところがあるようで、やっぱり外国産も使いたい、ついては自分たちの好みのものを作ってもらいたい、といったことになったのではないかと思う。

 注文先のひとつが中国江西省の景徳鎮であった。明・清王朝歴代の官窯が営まれたところで、染付(青花)や色絵(五彩)の優品が多く焼かれた。しかし、日本からの注文がなされたころは、明から清への移行期で、宮廷からの需要が衰退した時期である。どういう経路で、またどんな形で注文生産が行なわれたのかは明らかでないが、ともかく日本の茶湯趣味濃厚な一群のやきものができあがって、日本で伝世することとなった。コバルトによる青の文様のついた「古染付」と「祥瑞」がその主たるものだ。

 もっとも、なにが古染付であるかはあまり明確ではない。中心的概念はあるが、ほかのジャンルとの境界線上の作品もまた数多くみられるからである。祥瑞にはもう少しはっきりした作風がみられるが、これとても「祥瑞」銘のあるもの、ないもの取り混ぜて「祥瑞タイプ」とでもいったほうが正確ではないかという現実がある。両者とも、すべてが注文品かといえば、そうでもなさそうで、出来あいのやきもののなかから日本人好みの器物が選別されて、注文品といっしょに輸入されたのだろう。

 さらにまた、厳密にいえば景徳鎮の窯址から、これぞ古染付あるいは祥瑞だという破片が出土しているわけではない。その点からいえば、これらが景徳鎮産であるというのは、まだ推定の域であるともいえるが、まあ間違いないでしょう。

 前置きが長くなったが、この展覧会なかなかいいです。ほとんど青と白の展示(五彩磁器が一部含まれている)ながら、デザイン、絵付けに規矩にとらわれない自由で気楽な気分があって、中国官窯製品の厳格に統制された見事さとは対照的な面白さがある。

 古染付の『周茂叔愛蓮図皿』と命名された作品がある。片隅にひとりの人物が釣り糸を垂れていて、画面大部分に花とツボミをつけた蓮がある。人物は小さく、蓮がやたらに大きく描かれて、人物を圧している。この貧相な釣り人が「世人はなはだ牡丹を愛す。予ひとり蓮の淤泥より出でて染まらず……を愛す」という『愛蓮説』で有名な宋代の周茂叔と解してこのタイトルになっている。漫画的な描きぶりのうえ、輪花形皿に仕立てた8か所の刻みが位置も形もいい加減な感じで精作というには程遠い。しかし、口縁のあちこちにみられる“虫食い”と呼ばれる釉薬の切れめ(これも茶陶では見どころのひとつ)と不規則な刻みが相まって、皿全体も蓮の葉の表現になっている。このあたりに欠点を長所に転じた工匠の機知をみるべきであろう。

 御所車のような明らかに日本的な画題が描かれたものもあり、今回は出ていないが富士山形の皿なども作られている。なんらかの手本をみての製作だったに違いない。

 祥瑞はその点、緻密な白い素地、色濃いコバルトの発色、端正な形、細かく丁寧な絵付けで、古染付よりも整った作ぶりを示し、かならずしも日本からの注文を前提にしなくてもいいと思われる作品も多いが、歪みをもたせた沓形(展覧会の名称としては「州浜形」)の茶碗、最初から水指を意図したと考えられるものなどがあり、日本からの注文を示している。

 祥瑞にはしばしば円文や染織の紋、幾何学文など、細かな文様が施された器が多く、それらは初期伊万里(いわゆる「古九谷」はもちろん)の文様に共通し、古くは日本人が中国に渡って作ったやきものだという説があった。祥瑞は伊勢松坂(三重県)の人であるという小説風大論文もあって、おもしろく読んだことがあるが、その後の研究であえなく否定され、「祥瑞」銘のあるものは、呉という家の祥瑞さんによる作品だと考えられている。

 古染付も祥瑞も、日本の茶人たちの好みと愛着が製作・輸入・伝世に強く作用した。御所丸茶碗や彫三島茶碗といわれる高麗茶碗などとともに、日本文化と東アジアの窯場とのコラボレーションが生み出し、育んだ陶磁であるが、そんな文化史的談義は別にして、この展覧会では注文者、製作者、そして使い手のウィットやユーモアが生きた世界が楽しめるでしょう。

 出品の基本は美術館の初代館長・出光佐三さんが集めた作品からなっているが、特別出品として、古染付収集で名高い石洞美術館(東京都足立区)からの型作りの皿を借用して補ったうえ、東京大学構内の加賀藩下屋敷址から出土した関連品も展示されている。

 これで「勝手におすすめ展覧会」は33回となりました。切りのいい数字ですので、これで終了といたします。ご愛読いただいた読者各位とご協力くださった展覧会関係者に感謝の意を表します。ありがとうございました。

東京都・出光美術館
『古染付と祥瑞―日本人の愛した〈青〉の茶陶』
2013年6月30日(日)まで開催中
東京都千代田区丸の内3-1-1帝劇ビル9階
そのほか詳しくはホームページをご確認ください。

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勝手におすすめ展覧会

  • » 13.出光美術館『茶陶の道 天目と呉州赤絵 やきものに親しむ[』と 三井記念美術館『室町三井家の名品−卯花墻と箱根松の茶屋』より 2010年12月15日
  • » 12.静嘉堂文庫美術館『中国陶磁名品展 静嘉堂の東洋陶磁PartT』と 根津美術館『南宋の青磁 宙(そら)をうつすうつわ』より 2010年10月29日
  • » 11.藤田美術館『季節を愉しむ1 秋−新春の美術』と 永青文庫『永青文庫の茶入?2010年度総合調査をふまえて』より 2010年10月20日
  • » 10.各地巡回 『古陶の譜 中世のやきもの −六古窯とその周辺−』より 2010年9月15日
  • »  9.大阪市立東洋陶磁美術館 『幻の名窯 南宋修内司官窯 −杭州老虎洞窯址発掘成果展』より 2010年8月30日
  • »  8.各地巡回 『誕生! 中国文明』展より 2010年8月16日
  • »  7.京畿陶磁博物館「西海 海の中の高麗青磁」・梨花女子大学校博物館「文化のリーダー 梨花」 より 2010年7月30日
  • »  6.五島美術館 『陶芸の美 −日本・中国・朝鮮』より  2010年7月15日
  • »  5.各地巡回 『発掘された日本列島 2010』より 2010年6月30日
  • »  4.『名古屋の楽焼 −八事窯 中村道年へのあゆみ』より 2010年6月10日
  • »  3.出光美術館 『茶 −喫茶のたのしみ』より  2010年5月17日
  • »  2.日本民藝館 『朝鮮陶磁 −柳宗悦没後50年記念展』より 2010年4月15日
  • »  1.石洞美術館 『石洞山人と茶の道具 −茶碗・茶釜−』より 2010年3月17日

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プロフィール

吉良文男(きら・ふみお)

1941年生まれ。東洋陶磁史研究家。元茶道資料館特別研究員。近年は高麗青磁をおもなテーマとし、朝鮮半島の窯場を訪ね歩いている。足で稼ぐ「体感的陶磁史」を目指している由。

『世界陶磁全集』『縄文土器大観』『世界美術全集 東洋編』(いずれも小学館)などの編集にたずさわる。著書に『いまこそ知りたい朝鮮半島の美術』(小学館)、共著に『東洋陶磁史』(東洋陶磁学会)など。現在、日本陶磁協会の会報誌『陶説』に「韓国陶磁つれづれ私記」を連載中。

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