囚われ人の日本観 姜と『看羊録』9

『茶話指月集』という本がある。江戸時代前期の茶人・藤村庸軒(1613〜99)が師匠の千宗旦(1578〜1658)から聞いた話を娘婿の久須美疎安が編集したものとされる。中身は千利休にまつわる逸話や言行を中心にした茶道の説話集といった趣のもので、おもしろい話がいろいろとある。たとえば、
―利休の家の庭にアサガオが見事に咲いていることを豊臣秀吉に伝えた人がいた。「では、見に行こう」と秀吉が朝の茶の湯に利休邸に出かけてみると、庭には一枝のアサガオもない。おもしろくない思いで小座敷に入ったところ、床に一輪、色鮮やかなアサガオが生けてあった。秀吉をはじめ、お供の者一同、目も覚める心地で、利休はおおいにお褒めにあずかった。これが世にいう「利休のアサガオの茶の湯」だと申し伝える。

 次に引く逸話は、姜の見聞に少しつながりが感じられるものだ。
―「雲山」という肩衝茶入があって、堺の人が入手し、利休たちを招いた茶会で初めて披露したが、利休は一向に気に入らぬ様子だった。利休が帰った後で、亭主は「この時代に利休が気に入らぬ茶入ではおもしろくない」といって、五徳に投げつけて壊してしまった。傍にいた人がこれを譲り受け、自分で接いで、利休を招いて茶会を催した。「これでこそ、この茶入は見事だ」と今度は利休が称賛した。そこで、秘蔵されるのがいいですよと、その由を伝えつつ元の持ち主に返した。その後、この茶入は丹後の大名が値千金で買い取り、接ぎ目の合っていないところをきちんと修理し直そうかと小堀遠州に相談したところ、「接ぎ目が合わないでこそ利休がおもしろがって名高くなったものですから、そのままにしておくのがいいのです」と言った。

 これには古田織部のことばを伝える左の話が付随している。
―古田織部は完全な茶碗はぬるき物だといって、わざわざ打ち欠いて用いたことがある。よくない物ずきだと批判する人もあったが、この雲山茶入が割れたのちに利休が称美し、遠州もこのようにいったもので、茶道の風流はそういう批判とは別のところにあると知るべきだろう……

 宗旦は利休の孫である。お祖父さんにまつわることを親しい弟子に伝えた。だから信じられる話だ、と一応は考えられる。利休が自刃した天正19年(1591)当時、宗旦は13歳である。直接ではないにしても、逸話の多くは身近で聞いたものだった可能性が高いように思える。しかし、『茶話指月集』に載せられた話が、すべて宗旦が庸軒に聞かせたものかどうか、疑う人はいる。庸軒の改竄が多いのではないか、編者の疎安の筆がだいぶ入っているのではないか、あるいはこの本は基本的に疎安その人の著述とみたほうがいいのではないかという見解もある。私には史料批判をする能力はないが、右のアサガオや雲山肩付のエピソードなどは出来過ぎのような気がしないでもない。ただ、桃山時代の茶の湯の一面が見事に抽出されたような鮮やかな情景ではある。鮮やか過ぎるのが欠点かもしれませんが。
古田織部のことばは、原文では「全き茶碗はぬるき物」となっている。織部はまた、「全きはよろしからず」といった、とも伝えられる。「完全なものはよくない」というのだ。織部の美意識を示すことばとして「ひょうげもの」が一般に普及していることは前に述べた。しかし、これは他人が織部の道具を見ての印象評価である。この「全き茶碗はぬるき物」、「全きはよろしからず」のほうに、私は織部その人の肉声を感じる。そして、それは利休の考えを継承するものでもあったと思われるのである。

 では、「全き(完全なる)」ものがなぜ否定されるのか?

 形のうえで完全なものを考えてみよう。平面でいえば、正円がそれである。立体ならば、球である。少し広げて考えれば、正方形や正立方体もそういった範疇に入れていいだろう。このことは前にもちょっと触れたが、円いものが完全を志向すればするほど正円に向かう。正円という形は、大小はあっても、ひとつしかない。完全な球形というのも、形はひとつである。正方形や正立方体もしかり。形のうえでの完全は唯一に帰結する。逆にいえば、全からざるもの、不完全なものは多様である。歪みには無限のヴァリエーションがあるのだ。そしてさらにいえば、不完全なものこそ、実際の個々の存在としては、他者と区別される唯一無二のものである。これが、利休が思い、織部が語ったことで、姜が理解しなかったことだったのだ、と私は考えます。

 例によって、少し理屈っぽくなってきました。しかし、ここが拙論の眼目です。次回にもう少し続けさせてください。

【参考文献】
淡川康一『茶話指月集』(『茶道古典全集』第十巻、淡交社、1956)所収
谷端昭夫『茶話指月集を読む 宗旦が語るわび茶の逸話集』淡交社、2002