囚われ人の日本観 姜と『看羊録』10

 だいぶ前のことですが、かつて「三ヶ月」という茶壺について山上宗二が語ったことばを紹介したことがある(第11回)のをご記憶いただいているでしょうか。大きな瘤が七つあって、戦争で六つに割れたのを利休が修繕し、その後織田信長のものとなったが、割れたあとも名物としての威光がさらに増して、値段は見積もりようもない、といったことをこの茶壺について宗二は述べていた。

 ふつうの感覚では、やきものにできた瘤はあまりありがたがられない。おそらく、これらの瘤は、土練りが不十分だったために空気が胎土のなかにところどころ残っていて、それが焼成の過程で膨張した結果だと思われる。製造現場の感覚でいえば失敗作といわなければならない。しかし、中国南部の広東省か福建省かで窯出しされた当時は安価な品だったので、多少の傷はそのままに流通して、日本に到着後、その瘤のある姿形が「よし」とされるに至った。簡単にいえば、そういうことになろうか。

 割れてしまったものも、通常はキズもので、下手をすると打ち捨てられかねない。ところが、ここでは修理することによって価値がますます増大した。前回紹介した「雲山」という肩衝茶入の逸話と似た構造の話である。

 もうひとつ思い出していただきたい。宗二が関白(豊臣秀吉)に献上したらしい井戸茶碗のこと(第23回)である。宗二はこの井戸を「自分が見出した天下一の高麗茶碗である」と自慢していた。姜が『看羊録』のなかで、織部が茶室や茶道具鑑定の天下一とされていることを記すすぐ前に、「日本の風習では、あらゆる事がらや技術について、必ずある人を表立てて天下一とします。……木を縛り、壁を塗り、屋根をふくなどという、つまらない技にさえみな天下一があり、甚だしくは、着署(署名)、表相(表装?)、花押のようなものにまで天下一」があると書いているが、天下一は人だけではなかった。モノにもそれぞれ天下一があって、それは姜の見聞よりも少し前から日本のなかに存在した価値観だったのである。

 まさにそれは、戦国の武将たちが天下を目指して競い合った気風と軌を一にする。信長、秀吉が、武力で天下一を称するならば、大工だろうが左官だろうが屋根葺きだろうが天下一を技術で競って悪いことがあろうか。モノにおいては、茶碗にも茶壺にも茶入にも天下一を云々されるものが出てくる。それは人でもモノでも己を立てようとし、相手を凌駕しようとする社会である。破れ瓢や木桶が突如として名品にのし上がっていく時代である。

 姜は、彼が理想とする安定感のある儒教的秩序―階層が固定化されているという側面を含む秩序―からはほど遠い世の中を日本に見たに違いない。たぶん彼も、人の下剋上は理解したであろう。あらゆる地域や国の歴史はそのような現象を内包している。しかし、モノの下剋上ともいうべき道具の価値の急激な変動を目にし、姜はただあきれるほかはなかったかのようである。

 人にしろモノにしろ、天下一は、そのジャンルではひとつであることをいうものだが、そこには広い裾野が存在する。他者からの評価はともかくとして、一個の存在であることを強く主張する多くの個が渦巻いているのである。それぞれが自分であるためには、当然、他者とは違っていなければならない。これは、現代の常識でいえば、人間なら当たり前のことである。個人、個人が異なっているという前提で現在の世の中は成り立っている。少なくとも建て前ではそのはずだ。「一般大衆」などということばがあるので、あまり自信はないのですが……。

 これまで長々と姜の『看羊録』をめぐって書いてきたのは、それが桃山という時代の性格、ことに茶道具などに具現された性格の一面を、同時代人として簡略な叙述で指摘しているからである。渦中にあると自分の位置はよくわからない。姜は異邦人の目で、冷静に、批判的に当時の日本人の振る舞いを見て、記録した。ガイジンの視点から教わることは多々ある。

 姜の詩中に次の1行がある。

  一壺の椒? 看羊を慰む

 ひと瓶のうま酒に虜囚の憂いを慰める―茶よりも酒が囚われの朝鮮文人である姜の心事にはふさわしい。老生もこのあたりでこの項の筆をおいて、晩酌の支度をしましょうか。

【参考文献】
姜著『国訳 睡隠集』〈郷土文化叢書 第37輯〉全羅南道、1989