吉良さんの日常茶飯ばなし【やきものエッセイ(連載)】 − 小学館ブックピープル −
日常茶飯ばなし 50

茶碗と日本人(43)

2011年8月15日

観者の表現主義 2

 桃山時代以前の陶工たちの名前は、伝説の類は別にすると、今に伝わらないのがふつうである。

 こういう場合、よく無名というが、名前がなかったわけではないはずだ。生産地では「ナニ兵衛」とか「ナニ郎」とかの名があって、「あいつは轆轤の名人だ」、あるいは「うわぐすりの調合がうまい」などといった評価もあったに違いない。しかし、彼らの立場は狩野派の有力画家などとは違い、やきものの製造現場から遠く離れることはなく、同時代にあっても狭い範囲を越えて名前が知られるということはなかったのだろう。したがってその後、国宝や重要文化財に指定されることになるような品々でも、なんという人が作ったのかはまずわからない。

 日本でおおいに珍重されてきた中国や朝鮮半島、あるいは東南アジアの場合も同様で、珠光茶碗、高麗茶碗、南蛮、ハンネラなどを作った人の名前はまったく伝わっていないのである。高麗青磁の場合は、まれに人名かと思われる文字が底部に刻まれていたりするが、どこのだれだか不明なのが一般で、10世紀の青磁祭器のなかに「享器匠崔吉會」だの「享器匠王公?」だのと作り手の名前が刻まれているのは貴重な例外である。

 ひとつには、窯の運営というのが、個人の仕事のなかでは完結しない共同作業であったという事情もあるであろう。窯場としての名前は、それがブランドとしての市場価値をもつ場合は、各地に伝えられたに違いない。個々の人間は、頭のような立場の人も含めて「無名」であるのが職人たちの存在形態であった。

 例外はある。楽茶碗の始祖とされる長次郎と楽家の人たちである。これには楽家が長次郎以来現代まで茶碗作りの家として続き、江戸時代に書かれたものではあるが、家の系譜についてかなり詳しい記録があるからである。さらに、長次郎が利休と出会って茶碗作りを始めたとされ、その後の楽家も千家との深いつながりのなかで存続してきたという事情がある。個人名の残る長次郎の茶碗については、また別に考えたいと思います。

 江戸時代になると、少し様子が変わってくる。仁清という個人の通称のごときものを冠したやきものが出てくる。これを絵画や近・現代のさまざまなジャンルの作品における落款・サインの類と同列に並べていいのかどうかは問題があり、ブランド名として扱ったほうがいいのではないかとは思うが、ともかくそういう現象がある。

 さらに下ると「乾山」。これにも、尾形乾山(1663〜1743)が主催する工房のやきものですよ、というブランドとしての一面があるようだが、書画の落款と同じ意識で署名されたとおぼしき作品群もある。乾山自身、芸術家としての自覚の持ち主であったように思われるから、この段階になると、近代芸術にきわめて近い形で作家とやきものが関連づけられるケースがあったといっていいだろう。

 少し話が飛び過ぎました。要は、日本の近世のとば口までは、長次郎のような例外はあるものの、やきものの作り手は世間的には無名であった、ということがいいたいのです。したがって、ゴッホの作品をゴッホという個性の発現としてみ、そのうえで作品の個別性をみるというような形での作品と需要者との関係はなかったはずである。

 それでは、なぜ桃山の茶碗のような個別性に富んだ作品が生まれてきたのか?

 そこには需要者からの強い要望があったのではないかと思う。それが「歪み」であったり、「全」からざるものへの評価が示唆する需給の関係だったに違いない。

 作者の個性を意識的に表現しようとする近・現代の芸術家はともかく、中世までの日本の陶工たちには、一旦轆轤できれいにまるく挽きあげた碗をわざわざ歪めなければならない必然性なかったはずである。なによりもひと手間余計にかかるし、普通の感覚ではまるいままのほうが一般的商品として適しているのではないか。しかし、唐津も志野も織部も、こぞって歪みのある茶碗を作り出した。

 近ごろのファッション界では、その年その年の流行色があるそうだ。老生のごとく20年前の衣類を平気で着ているような人間にとっては無縁の話だが、「○○色が今年の流行色です」という声を聞くことがある。けれども桃山時代に、唐津と美濃の陶工が談合して「歪みのある器を作りましょう」などと話し合ったことは想像しにくい。需要者からの要望によるものだろうと愚考する所以である。この場合、最終需要者はいうまでもなく当時の茶人にほかなりません。