観者の表現主義 8

「全からざる」ものに美を感じるのは、日本独特かといえば、これまたかならずしもそうではない。たとえばヨーロッパのロマン主義のなかで、「廃墟の美」が強く意識されたことがある。過去へのなかば幻想的な追憶がギリシアやローマの古代遺跡のような廃墟の風景に人の心をいざっなったのであろうが、人は全きものに憧れるとともに、それが傷つき毀れた姿に共感を覚える心性をもっているようである。

 ルーヴル美術館に行くと、まず目に入るのが「サマトラケのニケ」像。

 巨大な翼を広げて歩み出ようとする姿は勝利の女神としての力に満ちていて、多くの観客に忘れがたい印象を残すであろう。ご存じのとおり、この像には首が欠けている。もちろん制作された当時はあったのだが、サマトラケ島で発見されたときはすでに壊れていた。

 四十年ほど前に初めてこの像の前に立った小生は、敗者のごとく圧倒されたものでした。ながくその印象は尾を引いているが、もとの完全な姿はどうだったのだろうという想像もときどきしてみたものだった。もちろん多くの古代ギリシアの彫刻資料があるから、復元作業は専門家がすでに行なっているであろうが、一鑑賞者としては自らの頭の中での楽しみである。しかし、今はそのような思考はやめてしまっている。自分がこの像から受ける感動のなかには、その「不完全性」によって喚起されたかと思われる感情が潜んでいることに気づいたからである。こういう感情がどこまで一般性を主張しうるものか? それは知るところではないが、なおいくつかの類似例がある。

 同じルーヴル美術館の「ミロのヴィーナス」は、たぶん最も日本人に親しみのある西洋彫刻ではなかろうか。老生の中学校時代にすでに、社会科の教科書に小さくはあったが写真が載せられていた。担当の先生は戦前から教職にあった人で、これは男性像である、と説明した。多くの生徒たちは女性像であることを察知していたから、授業の後で大いに笑ったものである。今思うと、先生だって知っていたのでしょう。おそらく色気づきかけている悪童たちに刺激を与えたくないという余計は配慮からそう言ったのではなかろうか。

 またまた脱線しましたが、この像はなぜこれほど人気があるのか? 顔形がきわめて端正で古典美を代表している、といったことが普通の説明としてあって、それはそれで正しい。今は欠けている腕があれば、その評価はさらに跳ね上がるに違いない。しかし、腕が失われていることが、美術史的評価とは別の人気を支えている面があるのではないか、というのが愚案である。

 このような考えには異論も多いことだろうから、もうひとつ、西洋彫刻の例を引く。

 ミケランジェロは生涯にいくつかのピエタ像を作った。おそらく最も有名なのは「ヴァチカンのピエタ」で、マリアが死者たるイエスを膝に載せている形が大理石に彫り出されている。両腕の肘から下をやや広げるようにしたマリアの姿勢は顔を前傾させているが垂直に近く、母の膝に支えられたイエスの腹部から腿にかけてはほぼ水平で、左右に広がったマリアの着衣とあいまって、全体として三角形に整合したきれいな構図をなしている。処女である母の少しうつむいた顔や手先は若々しく美しい。細部にまで神経の行き届いたリアルな彫刻で、端麗ということでは人為として完璧に迫って聖母子の神性を視覚化しているといっていいであろう。と、まあ見てきたように書いていますが、私はミケランジェロの作品にじかに接したことはないので、あくまで写真図版で見た範囲で論じていて、以下も同様です。

 一方、同じ作者のより晩年の作「ロンダニーニのピエタ」では、マリアはすでに中年と見え、生命を失って崩れ落ちるイエスの肉体をやっとの思いで支ええようとしている。縦長に引き伸ばされた構図は、ミケランジェロのマニエリスムへの傾斜と説明されるのでしょうが、ここには、腕から手からこぼれおちていく子どもの命を悲痛な思いで見る絶望的な母の生身の姿が描かれていて、神性よりも人間性の表現が強く観るものに迫る。
ここまで読んでくれた読者で、ふたつのピエタの像が脳裏に浮かぶ人は少しわが説明に納得してくれるかもしれない。しかし、どんな彫刻なのといわれる方もいらっしゃるだろう。写真で示さねばならないところだが、予算不足でかなうかどうか? イラスト化することも不可能ではありませんが、ミケランジェロに失礼な気もするし……。編集部と相談しながら、次号に続けます。