観者の表現主義 9

 ヴァチカンのピエタが完成度の高い作品であることには、だれしも異論はないであろう。

 では、ロンダリーニのピエタはどうだろうか?

 ミケランジェロの後期の作品には、これ以外にも、大理石の表面に鑿の痕の生々しい荒彫の彫刻群がある。制作を途中で放棄したような感じを受けなくもなく、そう解釈する向きもあるようだが、美術史家の矢内原伊作さんが、かつてこれらについて、ミケランジェロは荒彫の効果を意識していたのではないか、といった意味のことを書いていたかと記憶する。「書斎」と称している部屋のどこかにその本が埋もれているはずであるが、とりあえず探し出せませんので、もちろん正確ではない。何十年か前に読んだ矢内原さんの文章がもうろうたるわが脳内で発酵した、ただの思い込みであるかもしれない。

 ロンダリーニのピエタに関しては、ミケランジェロは「ここまで」という直感に導かれて制作を止めたのではないか、とわたしは勝手に想像している。彼はこの作品を通じて、完全な神性よりも、不完全であることを宿命づけられた人間そのものを表現しようとしたのではないかという、そんな想念に捉われる。ロンダリーニのピエタの、対称性を放擲し、イエスの下肢以外には、大理石彫刻の利点ともいうべき滑らかな肌を拒絶したような作風は、神聖家族の母子というより、死んだ愛し子をかき抱く普通の人間の母の悲しみ、絶望を表すに適しているようにみえる。彫刻家自身の意図もその辺りにあったのではないか。

 ミロのビーナスを好む感覚のなかにも、神よりも人間を求める心性が働いているように思う。腕を失ったことにより、完璧な女神像ではない、より人間的な存在として感受されているのではなかろうか。トルソ(四肢のない胴体像)のもつ存在感もそこに関連するものであろう。「全からざる」作品を鑑賞する態度の根底には、「人間、この不完全なるもの」という認識が横たわっていると推定している。
ヒトは神性や仏性を視覚化するとき、しばしば自らの姿に似せ、その形を理想化していった。それらを描き形作る芸術は、かならずしも理想的ではないヒト自身を理想の姿として映し出す不思議な鏡としての役割を担ってきた。目にみえる実在として提示された神や仏は、その理想的な姿ゆえに理想的な精神を体現するものとして理解されてきたのである。そこでは、現実の人間にはない心身の美しさの表現が造形活動に求められたはずである。古代ギリシアの神像やヴァチカンのピエタ、東洋古代の多くの仏像などは、その要請に応えようとする芸術家たちの努力の結晶にほかならない。

 しかし、芸術が人間的な姿のなかで理想を目指し、形としての完璧を追い求めていくことは、造形とその原型である現実の人間との乖離を作り出すことでもある。ヒトが独立した個人としての存在と尊厳を強く意識するとき、不思議な鏡を通してみる理想的な自画像と現実の自己との隔たりは、より等身に近い自像が映る鏡への要求を促したであろう。多くの事柄をはしょっていってしまえば、それが中世と近世の造形意識の分水嶺をなす意識構造ともみられる。前回から述べてきたミケランジェロのふたつのピエタにみる落差にも、そのことは関係するであろう。もちろんヴァチカンのピエタが中世芸術だなどと主張しているわけではありません。造形に内在する意識構造の一面をいっているのです。

 というところで、だいぶ迂回しましたが、本来の茶碗論に戻ってきます。年内には、この論を終えようとしているので、脇道に逸れるのもほどほどにしなくてはなりません。

 歪みやキズという、普通の器物でいえばマイナス評価につながるものが、茶器においてはしばしば鑑賞の重要な部分になることはすでに何度も述べてきた。整斉な美の追求を内在する唐物から、同じ唐物でも珠光茶碗のような粗相のものを選好し、さらに南蛮物、高麗物、和物へと傾斜していく侘茶の器物の流の帰結である。それはまた、神聖というに近い理想的な造形を求める意識から、より人間的な姿形を要望する意識への転換とみることもできる。

 かつて、桃山ルネサンス論がいわれた時期がある。もともとヨーロッパの歴史における時代区分をどの地域にも適用することなど、どだい無理があるから、アナロジー以上の意味がどのくらいあるか疑問だが、あまり大上段にふりかぶらず、のんきにいえば、ミケランジェロ(1457〜1564)と、たとえば武野紹・(1502〜55)が同じ時代の空気を吸っていた人たちであったことは、やはりおもしろい。