かくも近き存在 1

 茶碗では、よく「手取り」という。わかったようで、説明は少しむずかしい。
あるとき、ある場所で、ある茶碗の話をしていて「手取りが意外に軽いものですよ」というと、そばで聞いていたひとりから「手取りってなんですか」と訊かれたことがある。「給料の手取りならわかるけど」とそのサラリーマン氏にいわれて「なるほど」と納得した。手近の『大辞泉』をひいてみると、たしかに「給与などから税金その他を差し引いた、正味の受取金。実収入。」というのが第一義で、やきものの鑑賞で使う「手取り」というのは出ていませんでした。

 やきものに関して「手取りが重い」とか「手取りが軽い」とかいう。文字どおり手に取ったときの感じ、とくに重量に関わる表現である。しかし、単なる重さをいうなら、ただ「重い」「軽い」ですむ。わざわざ「手取り」というのは、それが視覚と結びついた相対的な重量感覚の表現だからである。ということは、この言葉が使われるとき、話し手には手に取ろうとする器に対して、意識的にせよ無意識的にせよ、重さの予測があるということにほかならない。そして、その予測は経験に裏打ちされた視覚を通じてもたらされるものであるが、同時に対象の器が手で持たれるものだという暗黙の前提がある。

 一般的にごつごつした堅そうな形、暗色系の色彩、分厚い造りなどは、重そうな印象を与えることが多いであろう。逆にサクサクした表面や明るい色、薄い造りなどは軽さを予想させる。しかし白い器でも、磁器質のものは陶器質や土器質のものに比べて重いということを経験的に知っている人は、白磁の肌からある程度の重量に関する情報を引き出すに違いない。こうして人は手に取る前に対象の重さを予測し、その予測にふさわしい力を手に込めて器物を持ち上げる。そのときの予測と実感の差の感覚が手取りの軽さであり、重さであるといえる。

 手取りの感覚は、誰しも持っているに違いない。しかしこの言葉が最も重視される機会は、おそらく茶碗を鑑賞するときである。茶碗が目の前に出されると、人はその茶碗の重量を無意識のうちに計っているのである。それは、茶碗は手に取るものだという多くの日本人に染み込んだ行動様式と関係がある。茶碗が茶を喫む碗であっても飯茶碗であっても汁碗であっても、通常、日本人はそれを手に取って、内容物を食べ、あるいは飲む。こうした器を置いたまま中味を摂取することは無作法とされる。

 日本人にとって常識であるこの習慣はしかし、かならずしも世界的に普通というわけではない。少し気取った洋食の席では、飲み物以外は容器を直接口につけるということはない。お隣の朝鮮半島でも器物に直接口をつける食べ方は「犬の食べ方」といって嫌われる。酒や水・茶の類以外のご飯やスープ、お菜の場合、器と口との間に距離が保たれていて、箸やスプーンによって中身が口に運ばれるのが普通である。一方、いつからかという詮索はさておいて、日本人にとって碗は手に取るものである。とくに茶室では通常、畳の上から茶碗を取り上げなければならない。人は格別意識しなくても茶碗の重量を予測することになる。

 持ち上げるのは木器でも漆器でも同様である。しかし、それらの場合、視覚的な重量感が裏切られることは多くない。その点、やきものは素材により、成形により、削りにより、重量はさまざまで、個体としての器物がもつその情報は、視覚を通じてもたらされる情報とともに、人と器を結ぶ無形の橋をなしている。

 同じことが手触りについてもいえ、指や掌によって対象を確認し、唇で触れることによって触覚を通じての認識が完了する。

 老生は少年時代、教師の目を盗んでよく映画を観に行ったものであるが、いわゆる「洋画」では登場人物が握手、抱擁、はては接吻(近ごろではキスのほうが一般的で、ことさらに接吻などというと、かえってヘンですかね?)と、やたらに身体接触がさかんであることにドキドキしながらも不思議な気がしたものである。昔の日本人はあまりこういうことを人前ではしませんでした。

 一方、近ごろのペットの飼い方では、これに似た光景をしばしば目にする。小生もかつてイヌとネコを飼っていたことがあり、接吻まではしませんでしたが、相手の迷惑もかまわず抱きかかえたりしたものです。

 こう書いてくると、いわんとしていることはおわかりであろう。そう、日本人のやきもの鑑賞法には、人と人とのつきあいや、そのコピーとしての人とペットとの関係行動に似たところがある。このような関係における相手はもちろん人一般、動物一般ではなく、個体としての人であり、動物でなければならない。類似の関係性が日本人とある種の器物の場合に成立しているのである。