かくも近き存在 2 「まとめ」というほどのことでもありませんが

 人間以外の対象を擬人化して認識するというのは、べつに日本人の特技ではない。機械や道具も、それが身近なものであれば、感覚としてヒトに近づいてくる。ペットになればなおさらのことで、近頃では家族として意識されることもしばしばである。これらには名前がつけられ、個体として識別される。ロボット化された機械は愛称で呼ばれ、人間化される。

 右の例とは少し側面を異にするが、部分名称の擬人化もよくみられる現象である。口、肩、腰、足・脚などというのは、器物だけに使われる表現ではないが、身体言語の転用で、このような表現は中国でも韓国でも用いられる。英語でもlipだのshoulder、footだのという。手近で普遍的なものを指し示すことばが便宜的に流用されて共通理解の橋渡しとなるのは、それこそ普遍的な現象である。

 このように考えれば、日本人の茶道具に対する感覚も格別なものとはいえないであろう。しかし、やはりそこには、日本列島のなかで育まれた、独特なものがあるように思われる。その根底にあるのが、器物とヒトとの緊密な接触を通じての関係性である。そして、それが最も先鋭化したのが日本の喫茶のなかで成立した茶道具とヒトとの関係、なかでも茶碗とヒトとの関係だといっていいだろう。

 茶道具の場合、かならずしも茶碗だけではないが、個体を識別し、名前をつけ、愛情または愛着を寄せる。視覚だけでは満足せず、掌に入れ、撫でて愛玩する。こうして視覚以外に触覚や重量感覚を動員した鑑賞態度ができあがる。前回に述べた「手取り」の感覚はその一要素となるのである。

 なかでも茶碗は直接に手にとり、口をつけるものである。「唇が茶碗の口に触れ、なかの液体をすする」と書けば、喫茶の動作の説明であるが、「茶碗の」の3文字を取ると、別のことを想像する向きがあるかもしれない。器とヒトの間にスプーンやフォークが介在すると、器の口当たりは問題にならないが、日本の飲食文化ではきわめて重要である。器物の形状表現には「尻膨ら」とか「締腰」という表現もある。なんとなく艶っぽい感じがなくもない。相手が器物であれ、動物であれ、濃厚な身体的接触は官能性を内包することになる。

 よくいわれることであるが、日本人の陶器好きもそこに関連する面がある。陶器と磁器では熱伝導に差がある。朝鮮半島のように、今も飯器や汁椀に金属器がよく使われ、やきものの場合でも磁器が一般的なのは、器を直接手にとらない飲食習慣と関係がある。日本で汁椀に木器ないし木胎漆器がよく使われるのは、これらが陶器よりもさらに熱伝導率が低く、手に内容物の熱さがほどよい程度にしか伝わらないからだ。日本で磁器生産が盛んになった江戸時代以降、飯椀に磁器が常用されるようになったのは、清潔が保ちやすいのと、ふつう、ご飯が汁より温度が低いからであろう。

 茶もまた通常、熱さを尊ぶ。しかし、禅院や殿中での茶は本来、点て出しだった。茶坊主といわれる人たちが裏側の「褻」の空間で点てた茶を広間などの表の「晴」の場に出して供する。当然、茶は少し冷える。高貴の人の猫舌の謂いで、飲む人たちは磁器製の碗でもそう熱くは感じなかったはずである。侘茶が成立してくると、茶室のなかで主客が対座し、亭主は客の目の前で煮えた湯を茶碗に注ぎ、茶を供するようになる。茶碗の熱伝導が問題になる。山上宗二が当世は「唐茶碗ハ捨リタル也」というとき、それはもちろん美意識のうえでのことであるが、背景にはそのような茶の出し方も関係していたであろう。

 一方、対象の個体性、個別性はなにによって保証されるのか? 主として形、色、大小などの視覚的に認識される要素であり、次いで触覚的特性であろう。日本の茶器では「景色」とか「見所」ということをいう。そこに、その器がもつ個体としての特徴が集約されているからである。人ごみのなかで別人の後姿を誤認することはよくあるが、顔と正対すればそういう間違いはあまり起こらない。

 茶入や茶碗を並べる展示では、博物館・美術館の学芸員の人たちは、それらの正面が観客に正対するようケースのなかに置く。抹茶を亭主からふるまわれたときは、掌のうえで回し、正面を避けて口をつけるのと通底するのはいうまでもないであろう。

 茶碗を鑑賞する態度のなかには、古くからの日本人の飲食習慣に根付く要素がある。そしてそれが、亭主と客との私的関係の濃度が上昇する侘茶の発展につれて、様式化され作法化されていったに違いない。個体識別性は、侘茶の美意識のすべてを説明するものではないが、ひとつの重要な機能を果たしたものであろう。というのが、茶味のないわが味気ない解釈です。