龍は、西方のドラゴンを別とすれば、中国にもっとも広く分布し、文化に深く根ざしたものであろう。朝鮮半島やベトナム、日本にも龍はいるようだが、多くは中国の親戚ないし子孫のような存在である。

 中国はいまや恐龍(竜)化石大国のような趣きがあり、とくに中国北方地域では次々に新しい化石が掘り出され、恐龍概念が書き換えられているが、古くから「龍骨」の存在が信じられていて、薬品として珍重されてきた歴史がある。巨大生物の存在は中国文明の根っこのあたりから知識としてあったに相違ない。龍の観念が化石骨と無関係でないことはたやすく想像されるところである。

 中国のやきものの図像としての龍は、紀元前5000年から前2500年ほどの間の仰韶文化や大・口文化に伴う彩陶に描かれたものが早い例ではなかろうか。前者では甘粛省甘谷県、後者では山西省臨汾県出土のものがよく知られている。いわゆる殷(商)周青銅器に龍族の文様が鋳出されるはるか以前である。しかし、後代の恐ろしい形相という感じはなく、ヘビに近くて、可愛らしい。龍観念の幼児とでもいうべきものですかね。

 龍は、戦国時代(紀元前403〜前221年)ころからあったという四神思想では東方の神で、青龍というのがこれである。日本では高松塚古墳壁画や奈良県薬師寺本尊の台座浮彫に現われるのが国産青龍の比較的早い例である。龍はさらに皇帝を象徴するようになって、「龍顔」といえば天子の顔、「龍衣」は天子の衣服を意味する。龍の図像も神だの皇帝だのになると威厳に満ちた姿に成長していった。

 話を一気にはしょります。

 明・清代に宮廷御用の官窯が江西省の景徳鎮に設置されると、龍文のやきものが最盛期を迎える。当時、皇帝用の持物の龍は五爪、すなわち四足すべて五本指に表現されることになっていて、官窯の製品もその規則に従っていた。五爪の龍文は、皇帝の器物以外は許されなかったとされる。王族以下は四爪、三爪で、事実、以前このコラムの姉妹編「勝手におすすめ展覧会17」で紹介した「宣徳年製」銘の青花龍文壺(出光美術館蔵)は三爪であった。これはタイ国に下賜されたものといい、明の朝廷が外国の王を一段下にみていた証である。しかし、皇帝以外は五爪を使うべからずという禁令に関しては例外もあったのかな、と思われる例もある。

 報道によると、昨年12月6日に、日本政府は朝鮮半島を植民地化していた時代に日本に持ってきた「朝鮮王室儀軌」などの図書1200冊を日韓図書協定に基づき韓国に返還したという。それに先立ってフランスも自国にあった朝鮮王朝の儀軌書を返し、昨年7月から9月にかけて、ソウルの国立中央博物館で「145年ぶりの帰還 外奎章閣儀軌」展を開催した。外奎章閣は京畿道の江華島にあった宮廷の図書館のひとつである。ここで儀軌というのは儀式の次第を記録したもので、何部かを作り、分有保管した。儒教を国是とした朝鮮王朝では、王家の先祖の祭祀・儀礼はきわめて重要で、儀軌書も最上の紙に丁寧な文字、彩色の図、重厚で華麗な装丁・造本に成る。もちろん、これらの儀軌書成立の前に実際の儀式があるわけで、そこに龍文の磁器が登場する。

 朝廷の儀礼では、青花白磁(染付)の壺が必要とされたようである。これが何に由来するのか、正確なことは知らないが、中国の儀礼に倣ったものではないかと思う。少し説明が要るかもしれない。

 朝鮮王朝に先立つ高麗時代の後半から、朝鮮半島の王家は中国皇帝に従うことになった。もちろん好きこのんでそうしたわけではない。13世紀になると、蒙古(元)が東アジアにも攻勢をかけ、1231年以来、たびたび高麗に侵入する。高麗朝廷は首都を開京(開城)から江華島に移して抵抗するが、1259年に時の太子が元に入朝して講和を結び、元に臣従することになった。高麗の武臣たちの対元闘争はなおしばらく続き、その一部は珍島(「珍島物語」という歌のあの珍島です)に籠り、さらに済州島で抵抗を試みるが1273年に敗北して終わった。日本への第1次蒙古襲来(文永の役)はその翌年の出来事である。この間の経緯は井上靖さんの『風濤』という歴史小説に詳しい。作家の脳裏では、高麗の運命が第2次世界大戦における日本の敗北と重なっていたに違いない。

 臣従とはどういうことか。政治的な独立性をかなり失うことであるが、具体的な現象として暦、年号をはじめとして多くの制度を宗主国に合わせることもそのひとつある。朝廷の正式な衣服や儀礼にもそれは及んだ。中国で元が滅んだ(1368年)あと、朝鮮朝は明朝に仕えることになった。こういう関係を事大(大に事える)という。以下、次号といたします。