前回に続いて、丹陽郡玄谷里の高麗古墳群の出土物についてみていきます。

 報告書では、ここでみつかったスプーンは高麗後期の型式とし、やはりハシは高麗後半の13世紀頃に比定している。なお、地表調査で金属製のハシが1本採集されているが、これは墓の破壊に伴う地層の撹乱かと思われる。

 共伴する陶磁器に関していえば、一級品というほどのものは出ていない。スプーンもハシも出なかった石槨墓のひとつで、菊花文の象嵌文様をもつ青磁瓜形水注の出土しているのが精品として目立つ程度である。報告者は12世紀後半から13世紀のものとしているが、13世紀とみていいであろう。ついでにいうと、この墓では中国南部産と思われる白磁の小碗もいっしょに埋納されていた。

 さて、お墓のなかで、スプーンとハシは遺体に対して、また食器に対して、どのような位置関係で置かれていたのか? 副葬品の残存状態から考えて、これまでみてきた玄谷里の諸墓は比較的破壊が少ない。しかし埋葬後、数百年の間に土砂が侵入し、小型で軽い副葬品はある程度動いていて、かならずしも当初の位置関係のままにあるわけではないと思われるが、器皿や食具は遺体の下方(下肢のほう)に置かれていた場合が多いようである。ただし、右の象嵌青磁水注が出た墓では、器皿は遺体の頭部の上方に集中していた。

 食具の縦置きか横置きかが当面の問題であるが、両者がほぼ同方向に並んで出土した場合と、十字に交差していた場合があって、判断がむずかしい。普通の生活で、後者のように、食膳上でハシとスプーンを交差して置くことは少し想像しにくい。ただ器皿の並びかた(これも墓内で動いている可能性があるが)との関係でいうと、かならずしも縦置きではなかったのではないかと思われる。かといって横置きと断定することもできない。このことについては、他の遺跡でもう少し類例を調べてみなければならない。

 これらの墓が造られたと推定される13世紀は、日本でいえば鎌倉時代に相当し、新安船の沈没に少し先行する時代である。ここで大括りに歴史をみてみましょう。

 隋・唐という巨大帝国が成立して以来、その風が東アジア全域に強い影響を与えた。日本では7世紀になると、外来文化の基準が朝鮮半島モデルから中国大陸モデルへと大きく変換したことが知られる。朝鮮半島では東南の片隅にあった新羅が勢力を伸ばし、唐と連携することによって高句麗、百済を亡ぼして半島を統一した。唐製のもの、唐様式による新羅製のものは、やはり7〜8世紀以後の朝鮮半島のあちこちで発見される。もし、朝鮮半島の食具の置き方が唐時代の食膳形式の影響を受けてそれを保持していたならば、統一新羅時代には横向きであったかもしれない。一方、統一新羅を継いだ高麗は宋風文化を多面的に受け入れ、陶磁器など器物の形態には宋風が強くみられる。丹陽郡玄谷里の墓から南宋の白磁が出土したのは、宋の文物が普及していた様相の一端を示すものだ。13世紀後半以後は、南宋を亡ぼした元の影響も受けるようになったであろう。中国の食具における縦置きの風習が、張競さんの説くように北方民族の影響を受けて元代に定立したとすると、高麗時代の食卓風景はなかなか微妙な歴史段階にあったことになる。

 新安船の高麗製スプーンは、まさにそのような歴史的、地政的位置のなかに存在する。と、まあ少し大袈裟ですが、そういうふうにも考えられるわけです。

 しかし、新安船内の高麗人の食事風景を推定するのに、お墓がどこまで参考になるかという、もうひとつの重要な問題がある。

 墓のなかの食器や食具は、並べかた、置きかたも含めて、どの程度に被葬者生前の生活を再現しているのかという疑問である。少なくとも今までみてきた墓では膳だの食卓などは出てきていないから、生きた人たちの食膳ないし食卓風景そのままではない。また限られたお墓の空間にどのように副葬品を並べるかという問題もある。しかし、生活を描いた高麗時代の絵画などがほとんどない現状では、墓は貴重な手がかりである。ひとまず、墓の副葬品は当時の人びとの生活の、部分的ではあっても、再現性をなにがしかもっているという前提でしばらく話を進めさせていただきます。

【参考文献】
ソウル市立大学校博物館・韓国道路公社『丹陽玄谷里高麗古墳群―中央高速道路建設区間(驪州―堤川間)文化財発掘調査報告書―』(ソウル市立大学校博物館学術叢書 第4集)、2008