ながながとハシとスプーンについて述べてきたが、肝心の高麗時代におけるそれらの並べ方については、結局のところよくわからない。現在一般的な縦置きが昔からずっとそうだったのかどうか? 以下、およそ実証性のない想像に近い話でとりあえずのまとめとすることをお許し願いたい。

 7〜8世紀、唐風の文化が滔々と新羅に入ってきたころ、新羅の宮廷では、食膳風景もまた唐にならう形が流行したに違いない。前に引いた張競さんの説に従えば、そのころの中国では、ハシ・スプーンは横置きだった。新羅の遺跡から出土する金属製のハシ・スプーンも横に置かれていた可能性が高い。新羅のあと、朝鮮半島を統一した高麗時代になると、金属製の食具が上級貴族層からさらに一般的な階層にまで広がっていったと思われる。各地の小型の石槨墓や土壙墓の副葬品からはそうみえる。しかし、スプーンに比べるとなぜかハシの出土例が少なく、墓のなかの状況から当時の食卓風景を推定することはむずかしい。いっぽう、伝統料理の食膳形式にはハシとスプーンを横に置く例があり、縦置きが主流になった時代にも横置きが併存してきた可能性はある。

 高麗時代の後期にあたる「至治三年」(1323年)の木札を伴う新安沈没船は、元時代の中国で仕立てられた貿易船で、元人、鎌倉時代人、そしておそらく高麗人が乗り合わせていた。海底から引き揚げられた遺物のなかには中国製厨房具、日本製食器、朝鮮半島製スプーンなどがある。東アジアの三つの地域の商人や船乗りが、どのような食事を、どのような食具でとっていたかは興味のあるところだが、想像の域を出ることはやはりむずかしい。ただ次のことはいえよう。

 元はモンゴルが建てた国である。彼らは騎馬を得意としたが、操船は苦手だった。新安船が沈没したころより40〜50年前のいわゆる元寇(蒙古襲来)の際も、操船の主力は旧南宋人や高麗人であった。新安船の船乗りも浙江省、福建省の人びとが中心だったであろう。出航地が寧波(浙江省)と推定されることからもそう思われる。

 下級船員たちはともかく、高級船員、客商たちは船室で食卓を囲んだに違いない。そこで供されたのは元代中華料理であった可能性が高いが、どんなメニューだったのか、これまたよくわからない。中華料理がいつからいまのような料理になったのかについても諸説あるが、明代あたりからほぼ現在の形ができてきたのではないかと考えられる。料理の点でも元代というのは中国文明の重要な転換過程である。皿をはじめとする大型食器が登場するのが元の時代で、会食の景色が宋代以前とは大きく変わったと思われるのだ。新安船での食具の並べ方も基本は中国式であったに違いなく、すでに北方遊牧民の習俗が中国に定着しつつある時代だが、いっぽう、右にみたように船員の多くはおそらく南方人で、宋代由来の古い習俗を捨て去ってはいない可能性がある。船中でのハシ・スプーンの置き方はやはりわからない。

 もし新安船の航海を映像で再現するとしたら、食事の光景は考証に苦労するところである。しかし元時代の貿易船として、日本の関与も含めてさまざまな具体的資料がこれほどわかっている事例はない。アジアの海では今、領海問題がやかましい。政治家などが声高に国家だの国益だのを主張すればするほど事態は悪化しかねない。日本、中国、韓国の知識と知恵を集め、共同制作として『新安船アドヴェンチャー』でも作って、700年前の東アジアの海の状況を再現してみてはいかがであろうか。その中で船中の食事風景もぜひみせてもらえるとありがたい。新安海底から引き揚げられた中華鍋でどんな料理を作るか。はたして油炒め料理は食卓に並んだだろうか。火力はどうしたのだろう。これらもまた、けっこうむずかしい問題だが、面白い課題であることも間違いない。

 例によって余談です。9世紀前半に張保皐という人物がいた。唐と新羅の間を往来し、九州にもやってきた。日本の文献では張宝高という字を当てる。ときは新羅の末代で、慶州政権の力が衰え、各地に豪族が勢力を張った。彼もそのひとりで、今の全羅南道の莞島という島にくっついた将島に清海鎮という本拠を置き、中国山東半島の赤山(山東省文登市)にも拠点をもっていた。平安時代の日本から唐に法を求めて旅した慈覚大師円仁(794〜864)さんも、張保皐とその部下たちにおおいに世話になった。この張保皐を主人公にした韓国ドラマに『海神』があるが、多くの韓ドラ同様みていない。ビデオを貸してあげる、と親切にいってくれた人がいるが、大長編らしく、おそれをなして借りていない。だれか食事の風景だけを編集してくれるとありがたいのだが。ちなみに将島では越州窯青磁などの中国陶磁がかなり出土している。

 莞島は現在、アワビの養殖の盛んなところで、何年か前に清海鎮遺跡を見学に行ったおりも、地元の教育委員会の方の案内でアワビや魚料理を出す店に連れていってもらった。こういう踏査はまたやりたいが、将島に関していえば、ふつうは海水によって莞島と隔てられている。一日2回の干潮時ならば車で渡ることができるので、清海鎮遺跡をみるためには潮の干満情報を事前に調べる必要がある。軍事的にはいい立地だったのだろう。

【参考文献】
円仁(足立喜六訳注、塩入良道補注)『入唐求法巡礼行紀』(1・2)、東洋文庫・平凡社、1970・85