前回に引いた鄭大聲さんの本はタイトルどおり食に関するものだから、カマについては炊飯の竈・釜の話が中心である。ここではやきものを焼く窯について少し触れておきたい。

 日本で1000度以上の高火度でやきものが焼かれるようになったのは5世紀からで、このとき、日本のやきものの歴史に革命的な事態が起きた。成形のうえでは轆轤の使用、焼成では構造的な窯を用いるようになったことである。高火度という点で後者が重要で、窯という外部から大部分遮断された内部構造をもつ装置がなければ高い温度を獲得し保持することはむずかしい。その点では竈も同じ機能をもっていて、加熱する目的が少し違うから大きさ・形態に差異はあるが、同じくカマなのである。

 ともかく、轆轤と窯のいずれの技術も朝鮮半島から渡来してきた人びとによってもたらされたものだ。その技術で焼き上げられた陶器を現在は須恵器といっている。これ以後、日本の古墳時代のやきものは、弥生式土器の子孫たる土師器と新規参入の須恵器が二大主流をなすことになる。

 『日本書紀』に須恵器と関連ありそうな記事がある。まず、「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと) 崇神天皇」の秋八月癸卯朔己酉の条。すなわち、

近臣らの夢によって、大物主大神を祭る神主として大田田根子命(おおたたねこのみこと)なる人物を探したところ、茅渟県陶邑(ちぬのあがたのすえむら)にいたので、天皇自ら「誰の子か」とお尋ねになると、「父を大物主大神と申し、母を活玉依媛(いくたまよりひめ)と申します。陶津耳(すえつみみ)の娘です」と答えた。

とある。

 『日本書紀』の内容解釈はむずかしく、どこまでが史実か不分明な叙述が多いが、ここで陶邑にいたという大田田根子は大物主(大国主)の子を自称する。また母方の祖父の名には「陶」の字がつき、陶邑に住み着いた家系のように読める。この陶邑は、大阪府堺市にある陶邑に比定され、泉北丘陵に位置するそこは多くの須恵器を焼いた窯が発見されていて、須恵器生産発祥の地と考えられる場所である。

 また、「大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)天皇 雄略天皇」の七年条には、

 天皇が大伴大連室屋(おおとものおおむらじむろや)に詔して、東漢直掬(やまとのあたいつか)に命じ、新漢陶部高貴(いまきのあやのすえつくりべこうき)・鞍部堅貴(くらつくりべけんき)・画部因斯羅我(えかきべいんしらが)・錦部定安那錦(にしこりべじょうあんなこむ)・訳語卯安那(おさぼうあんな)らを、上桃原(かみつももはら)・下桃原(しもつももはら)・真神原(まかみのはら)の三か所(異説もあるそうだが、奈良県明日香村に比定される)に移住させた。

とあり、「新」は「今来」ということであろうから、近年渡ってきた陶器作りの高貴という人物がいたという。鞍作りだの画工だの織物師だの訳官だのと、多くの外来技術者がいたことが窺われるが、この前には、百済から技術者が献上され、ある場所に住まわせたが病死者が多かったという移住の理由が記されていて、おそらく高貴も百済系技術者であろう。

 右の『日本書紀』の述べるところを信じれば、須恵器の源流を百済に求めることができそうに思われる。しかし、須恵器は百済系であるといってしまうわけにはいかない。製品の比較からは新羅、加耶に由来すると思われるものが多い。日本各地に散在する須恵器諸窯の源流探しは、日本の陶磁考古学の大関心事のひとつで、多くの研究がある。専門外の小生が口を挟むのはためらわれるが、須恵器は何段階、多チャンネルにわたる渡来経緯がありそうで、担い手も朝鮮半島南部のいくつかの地域集団に由来すると考えたほうがいいようだ。

 系統論をむずかしくしている根っこには、たぶん新羅の領土拡張という問題が横たわっているに違いない。その過程で、とくに新羅勢力圏に接していた現在の慶尚北・南道の加耶諸国ではしだいに文化の新羅化が進行し、同時に朝鮮半島から押し出されるようにして日本列島にやってきた集団が少なくなかったであろう。新羅土器と加耶土器とのおおざっぱな(こんな表現をすると専門家からは叱られるかな?)弁別法はあるが、門外漢の私などからすると、加耶の新羅化という現象が両者の明確な区分を困難にしているように思われる。新羅化の進んだ加耶土器の器形が日本に入ってきた場合は、先祖探しも簡単ではないに違いない。

 話がカマからだいぶ逸れてしまいました。軌道修正します。

 弥生式土器以前のやきもの焼成は、地面に直にか、あるいは少し掘りくぼめた地面に成形後の器体を置き、その上に燃料をかぶせて焼いていた野焼きないしそれに近い方法だった。これでは熱が放散しやすく、高い温度を得るのはなかなかたいへんである。また、酸素が常時供給されるから、酸化炎による黄褐色系のやきものになりやすい。

 朝鮮半島では三国時代から斜面を掘り込むか掘り抜くかして、床面に傾斜をつけると同時に密閉性の高い窯を構築してやきものを焼成する技術が存在した。熱が外部に逃げにくく、また空気の流入をコントロールしやすい設備である。この結果、高火度で焼き締まり、最後の段階で酸素の流入を抑え、還元炎による灰黒色を呈するやきものが生産されるようになった。須恵器はこの方法によるやきものである。この技術導入が、のちに日本中世陶器の特徴である「焼き締め陶器」に発展していくのだが、それはまた別の物語です。

【参考文献】
『日本書紀 1』「新編 日本古典文学全集2」小学館、1994
『日本書紀 2』「新編 日本古典文学全集3」小学館、1996