やきものを焼くカマと炊事用のカマとは本来同じことばである。しかし、現在の漢字の用法としては、ふつう前者を「窯」、後者を「釜」「竈」と表記して区別する。さらに釜は主として煮炊きの材料を入れるナベ・カマにあて、竈はカマドとすることが多い。

 老生のこども時代、台所の土間の隅にしつらえられていた黒い土製の炊事用施設はカマとはいわずカマドまたはヘッツイ、オクドさんなどといっていた。日本の多くの家庭でそうだったのではなかろうか。この「ド」は一般的には「処」だと説かれる。現代朝鮮語では場所を意味するト(teu)ということばがあり、窯場、窯址のことをカマトという。カマドを「竈処」と解するのに通じる。しかし、「ト」は入口を指す「戸」「門」の可能性もあるのではなかろうか。ナベ・カマの釜は、上の全面が開いているが、口と呼べるものはついていない。この連載のずいぶん前、「茶碗と日本人(2)」で触れた燗鍋という道具には注ぎ口がついているが、これは一般的な煮炊き用のナベではない。いっぽう、土間の竈には燃料をくべる大きな開口が必須である。この開口部を表現したのがトで、設備全体を指すのではなく、竈の口のところだけを意味する部分名称だったものがナベ・カマの釜と区別する炊事設備の呼称として定着した、というのが愚推です。

 素人の語源談義はひとまずおいて、やきものの話に戻りましょう。

 陶磁器の窯も、もちろん燃料を入れる口がないと役に立たない。「焚口」といっていて、こういう用語がいつからのものか調べたことはないが、「窯戸」とはいわない。大阪府の陶邑あたりに朝鮮半島から須恵器の技術が入ってきたころ、窯炊きの際、師匠が弟子に
「カマド(あるいはカマト)にもっと薪を入れろ!」
などと怒鳴っていたのではないかと想像をたくましくしているが、もとより根拠のあることではない。

 さて、この外来の、日本初の構造窯は穴窯の一種である。「登り窯」と呼ばれることもあるが、これはきわめて広い内容を含むことばで、実体がわからないとどんなものなのかわからない、「わかっている人にしかわからない」用語法の一種である。もっとも、穴窯だってわからないといえばわからない。

 やきものを焼く窯には、竈や七輪(どうも例が古くてすみません。いずれもほとんど死語でしょうか?)のように下部から垂直方向へ熱を加えるものもあるが、床面に傾斜をもたせて斜め上方に熱を引き上げる細長い構造になっているものが多い。この場合、基本的には「登り窯」構造をとるが、個々にはきわめて多くのバラエティがある。実際に須恵器を焼いた窯のように焼成室がひとつだけの単室の窯もあれば、途中に仕切りや壁を設けた連房の窯もあり、室を階段状に連ねた階段式連房窯もある。そのため、須恵器の窯のような地下または半地下式の単室窯は「穴窯」または「窖窯」といって、他と区別するのが陶磁史では一般的である。

 現在の日本では、特別な意図がない限り穴窯を使うことはないが、15年ほど前にラオスに行ったとき、ルアンプラバーン近郊で昔ながらの地下式穴窯が生きているのをみたことがある。煙突はなく、窯尾の煙出し(排煙孔)をみると、地面に自動車のタイヤ程度の大きさの口が開いている。焚口とは比高で3メートルくらいの差があり、中の窯胴部はかなり幅広な急な掘り抜きの傾斜面になっていた。ミャンマーのエヤーワッディ(イラワジ)河周辺でも同じ構造の窯址が残っていて、焚口が埋もれていたので煙出しから入ってみたが、胴回り70センチくらいの小生でやっと通れる程度の口径だった。

 余談だが、このラオスの窯に似た穴窯の遺跡はタイ、アユタヤ近郊のシンブリ県に残っていて、よく保存されている。16〜17世紀ころに、この種の窯で焼いた壺が日本の沖縄、九州、堺などに運ばれた。当時は壺そのものに特別な価値を認めてのことではなく、コンテナー(容器)として中身に伴い輸入されたものだ。しかし泡盛を作るには、これらのタイ製の壺は具合がいいらしく、今でも沖縄で珍重されていると聞く。器壁の厚みや土質が酒の熟成に適しているのだろう。余談ついでにいえば、抹茶の世界で建水などに使われるハンネラという土器質の小壺があるが、これも多くがタイで作られた移動式の釜にかける炊飯器である。元来は貿易に関わる船乗りたちの携帯品だったのが、右の壺などとともに移入し、茶道具に見立てられたものである。