司馬遼太郎さんのいうとおり、九州の松浦という地名は古く末羅あるいは末盧と表記された。「盧」も「羅」も本来同音同義のことばを漢字表記したものである。

「魏志倭人伝」として知られる文章を含むことで有名な『三国志』魏書の「烏丸鮮卑東夷伝」には中国東北部から朝鮮半島、さらに日本列島の一部にかけての諸族について述べたものであるが、そのなかに末盧国と同じ盧のつく国名がかなり出てくる。朝鮮半島南部についての記述のところをみると、
「韓は、帯方郡の南にあり、東西は海で限られ、南は倭と境を接して、その広さは縦横四千里ばかりである。三つの種族があって、一つは馬韓、二つ目は辰韓、三つ目は弁韓である」という。いわゆる三韓である。そして、馬韓には全部で五十余国があると述べて、国名が列記されている。そのなかに速盧不斯国、咨離牟盧国、莫盧国、狗盧国、駟盧国、万盧国、捷盧国、牟盧卑離国と、8つの盧のつく国が出てくる。

 辰韓については、秦の労役を逃れて韓の地にやってきて、馬韓の東部の土地をもらって住み着いたもので、秦韓とも呼び、もと六国であったが、十二国に分かれたとあるのみで、国名は書かれていない。

 弁辰(とあるが弁韓のことと思われる)にも十二国と小さな地方的中心地があるとあって、23の国名が列記されている。うち、弁辰・盧国、斯盧国の2国に盧の字がある。ほかに弁辰半路国、弁辰甘路国、戸路国という路の字のつく国があり、蘆と路も同じだとすると、5国を数えることができる。・盧国については、倭と境界を接している、とわざわざ注記していて、その後にいわゆる「倭人伝」が続く。

「倭人は、帯方郡の東南の大海の中におり、山がちな島の上にそれぞれの国邑を定めている。もともと百余国があって、漢の時代に中国へ朝見に来たものがあった。現在、使者や通訳の往来のある国が三十国ある」というのがその冒頭である。つぎに邪馬台国の位置にからんで昔から論争の的になっている方向と距離に関する叙述があって、対馬国、一支(壱岐)国を経て、「さらに一つの海を渡り、一千余里を行くと、末盧国につく」。

 こうしてみてくると、朝鮮半島南部から続く一群の「盧」のつく国に末盧も連なっていると考えられる。司馬さんのいわれるとおり、末盧すなわちマツラ(羅)で、これがのちに松浦と表記され、さらに漢字の音読みに引きずられてマツウラとなった。

 盧と羅が同一であるということについてはもうひとつ例がある。

 右にみたように、弁辰(弁韓)に斯盧があった。これは新羅の古名であり、ここでも盧と羅は同じ意味である。新羅は朝鮮半島東南部の辰韓が出自だとされるが、現在の釜山市を流れる洛東江流域一帯を指す弁韓と辰韓とは入り交じっているというのが魏志の記述である。ちなみに弁韓は後の加耶諸国がそれにあたると考えられている。

 細かなことだが、カヤについては前回、司馬さんの表記どおり伽羅(伽・)という字をあてた。日本では人偏があったりなかったりで、かならずしも統一した書き方ではないようだが、現在の韓国ではカもヤも人偏のない加耶で記すのがふつうである。ここでは面倒を避け、加耶と書く。

 さて、ここまでくると、百済の問題に触れないわけにはいかない。

 韓国では、これをペクチェと読む。韓国流の漢音読みそのままである。魏書では馬韓のなかに伯済国というのがあって、これが百済に違いない。今の日本語では、百は「ひゃく」、伯は「はく」だが、韓国語では同音である。一方、日本では百済を「くだら」と読む。

 日本人の漢字の読みは漢音、唐音、呉音が入り乱れ、そこに訓読みが混ざり、ほとんど滅茶苦茶といってよいような世界ができあがっている。歌謡では「女人」と書いて「ひと」と読ませたりするし、人名に至っては本人に確かめなければ誤読する危険が大きい文字づかいが多々ある。そのなかにあっても、「百済=くだら」は、知らなければ難訓の最たるもののひとつであろう。

 存じ上げない方だが、足利健亮という歴史地理学者もなぜ「くだら」か、という疑問をかねて抱いていたことを「日下・東・百済―古地名和訓の成立を推理する」という文章で知った。おもしろい論なので、次回にその説くところを拝見しましょう。

【参考文献】
陳寿 裴松之注(今鷹真・小南一郎訳)『正史 三国志』4 魏書W、ちくま学芸文庫、1993
足利健亮「日下・東・百済―古地名和訓の成立を推理する」『新編 日本古典文学全集2 月報2』小学館、1994