前回紹介した足利健亮さんの、フダラク(補陀落)からクダラ(百済)になったという説でも触れられていたように、『日本書紀』における百済の初見は神功皇后について述べた巻第九である。この巻は神功皇后の夫君、仲哀天皇の崩御関連の記事で終わる巻第八の後に置かれ、皇后の誕生から死までを扱う。皇后が摂政についたあとは、摂政元年から69年までの年次で記され、天皇と同格という位置付けである。

 この神功皇后巻には朝鮮半島との交渉に記述の多くが割かれていて、百済のことも新羅討伐の余波として出てくる。ただ、神功皇后にまつわる話は『日本書紀』のなかでもとくに作為が目立つとして、以前より疑問符が多々付されている。

 それはともかくとして話を百済の訓にしぼると、小学館版『日本書記@』「新編日本古典文学全集2」の百済初出部分(摂政前紀 仲哀天皇九年十月条)の注に次のように書かれている。なかなか重要な指摘なので、そのまま引用させてもらうと、「クダラの名は「居レS」(現慶尚南道晋州)の名が拡大したものか。また、タは「大」、タラは村落、大国の意とも」というのがそれである。

 手許の『新増東国與地勝覧』という朝鮮王朝時代の地理書に、その居モニいう地名が出ている。この書は、各地の自然、名勝・史跡、人物、土産などが簡潔に説明されている便利なもので、韓国の窯址などを調べる際、よく利用させてもらっている。それぞれの場所の最初に「建置沿革」という項がある。行政区画の歴史といったものであるが、その晋州のところをみると、「もと百済の居列城」とあって、「一名/居メvと割注がつく。さらに「新羅文武王、取って州を置き、神文王、居ワBを分けて晋州を置き、\管」云々という。百済の領地であったこの辺りが新羅に併呑され、その体制下での区画整理で晋州が設置されたことがわかる。

 文武王(在位661〜680)は新羅30代の王で、唐の助けを得て百済、高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を統一した。これを継いだのが神文王(681〜691)である。統一新羅の王として行政再編に取り組んでいたことが、右の短文からもうかがえるであろう。

 晋州の周辺は、7世紀に新羅に編入される前は百済の領域で、居列または居モニ呼ばれていたのだ。居列は日本語的漢音では「きょれつ」または「これつ」、居モヘ「こた」「こち」「きょた」「きょち」と読める。引用した『日本書紀』の注では「こだ」と割注で読みを付している。現在の韓国・朝鮮語では母音のうしろにくる平音のカ、タ、ハは濁音化する。日本語の場合、厳密ではないものの、やはりその傾向がある。古代言語でも連濁の発音習慣があった可能性は高く、ここは「こだ」と読めるだろう。

 居列または居モヘ、在地の小国名だったのではないかと思われる。すなわち、朝鮮半島南部に割拠していた「羅」国家群のひとつだったのではなかろうか。この推測が正しければ、今の晋州を含む地域に、そこが百済支配下に入る前、漢字化すれば居列羅または居羅となる国があったことになる。日本では後者の「コダラ」で知られ、それがクダラに転訛したのだろう。あるいはもともと「クダラ」に近い原音だったのが「居羅」と漢字化されたということだったかもしれない。古代日本人は、百済をまず居羅と同一視することによって認知していたことが、百済がクダラと呼ばれるようになった原因だと考えられる。

 以上が「百済=クダラ」に関する拙論である。

 神功皇后紀では、新羅王が日本国に降って貢物をたてまつったのを聞いて、高麗・百済二国の王が日本には勝てないと悟り、今後長く朝貢することを誓った、ということになっている。この高麗は10世紀に統一新羅を滅ぼして始まる高麗王朝のことではもちろんない。小学館本の注には、高麗の解釈として高句麗とコマ(古馬弥知=全羅北道益山または熊津=忠清南道公州)という両論を併記している。高句麗を高麗と表記する例によるのが前者の説で、後者は高句麗とは別のコマだと解するものである。その場合だと、益山も公州も百済が都を置いたことのある場所なので、「高麗」は百済の中心地域を意味しており、「百済」が昔から交渉のあった晋州界隈を指していることになる。右の記述のあとに「是、所謂三韓なり」とあるから、新羅、高麗、百済を三韓の辰韓、馬韓、弁韓に当てれば一応合理的だが、神功皇后紀のこの部分を皇后の事績を誇大化したフィクションと考えれば、高麗は高句麗のこととしてもいっこうに不思議ではないでしょう。

【参考文献】
『新増東国與地勝覧』韓国・東国文化社、1957(成化十七年序の版本の影印本)
小島憲之ほか校注・訳『日本書紀@』「新編日本古典文学全集2」小学館、1994