前回、クダラの故地であろうとした晋州は、現在の慶尚南道西部の都市で、30キロほど西に行けば全羅南道との道境に至る。だいたいでいえば、三韓時代の弁韓(弁辰)の地で、のちの新羅、百済、加耶諸国のボーダーラインに位置する。これがまず百済に侵食され、さらに新羅に領有されることになったのが、『新増東国與地勝覧』の述べるところである。

 ちなみに『三国志』魏書「烏丸鮮卑東夷伝」には、弁韓の十二国のなかに戸路国というのがあった。この戸路はおそらく居列と同じで、居羅を指しているのではないだろうか。

 ついでにいうと、晋州は豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の激戦地のひとつで、進駐してきた日本軍武将を酔わせ、相手の指を自分の指に結わえ付けて無理心中のような形で敵将を殺した愛国妓女の話が伝わる。そういう土地柄なので、晋州城内にある国立晋州博物館は壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役の韓国での呼称)をおもなテーマとして展示している。しかし、愛国的反日展示臭はあまり濃厚でなく、日本からの出品なども並べているので、この方面に行かれる方は訪ねてみることをお勧めする。周辺地域の考古遺物や美術資料もあって、陶磁器もたくさんみられます。

 百済の訓について述べたから、新羅が「しらぎ」と読まれることについても触れておく。うしろにくっついている「ぎ」は城だというのがこれまで説かれているところで、私にもまったく異論はない。茨城を「いばらき」、宮城を「みやぎ」と読むのと同じである。新羅城と城まで漢字化すると、「しらぎ」という読みとぴったり対応する。城は、現在の日本語では城郭の意味が強いが、本来は塀や壁のような人工構築物で囲まれた町を指す。平城京が日本初の本格的中国式大都市で、四周が囲まれた城であった。城市ということばもあるが、別に町のなかに城郭がそびえているわけではない。

 例によって余談になる。

 城は、現代中国語ではchengという音である。タイ北部にはチェンマイ(「新しい町」という意味)やチェンライがあり、ミャンマー(ビルマ)北部にチンのつく地名が散見されるのは、中国語の城と同じことばの流れだと思われる。中国雲南省の南部に西双版納というタイ族自治州がある。野生象がみられ(野生象が棲むという森にいきましたが、そのときは飼育象しかみられませんでした)、南国風物を楽しめる観光地で、シーサンパンナと中国語化されているが、元来はシプソップパンナー(十二部族)というタイ語由来の地名である。ここの州都は漢字化されて景洪という。調べたことはないが、このチンもチェンマイのチェンと同じだろう。近代の中国、朝鮮半島、日本では城市の市がシティの意味で一般化しているが、中国をはさんで西南のほうにチェンだのチンだのという「城=町」概念が残り、東のほうにはキとかギという城を意味する古語が地名として現存すると考えると、歴史地理というものがちょっと身近に感じられませんか。

 晋州付近の話に戻ります。

 以前に連載した「茶碗と日本人」のなかで、井戸茶碗などを焼いた鎮海頭洞里窯址(熊川窯址)について述べたことがある。鎮海は今、晋州の東に位置する昌原市に属し、窯址の場所は晋州と釜山のほぼ中間にあたる。窯址名でわかるように、そこの地名には熊の字がつく。この熊を冠した名は古い起源をもつものである。窯址の発掘報告書には地名の変遷が次のように要約されている。

 現在の鎮海は、よく知られているように、日帝時代に日本軍の海軍基地が造成されるに伴って付けられた名前で、朝鮮時代の鎮海は今の馬山市鎮東面一帯である。今の鎮海は、高麗時代以後朝鮮時代までをみても熊川県と呼ばれていて、その以前は熊只県、熊神県などの名をもっていた。(中略)熊川県に関する最初の記録は『三国史記』地理志に義安郡の四領県中の一県として紹介されている。この本によれば、「……本来、熊只県と呼ばれていたものを景徳王が熊神県に改めて呼んだ……」という(注:『三国史記』巻三十四 志三 地理一)。それ以前には弁辰二十四国の一小国であったものと認められるが、このうちのどれに比定されるのかはわからない。

 ここでいう弁辰は弁韓と辰韓を合わせた地域を指す。たしかに『三国志』には、それらしい国名が見当たらない。それは当然のことで、熊只のような熊を冠した地名は、三韓が三国体制に呑み込まれ、この一帯が百済領域に編入された時代以後に成立したと考えられるからである。というところで以下次号。

【参考文献】
鎮海市・慶南発展研究院歴史文化センター『鎮海熊川陶窯址U』(慶南発展研究院歴史文化センター調査研究報告書第22冊)2004