熊の字を冠した朝鮮半島の古地名として、すぐに思い浮かぶのは熊津である。

 百済は、古くは伯済と漢字化されていて、三韓(辰韓、弁韓、馬韓)にまとまっていくまえに多数あった部族国家のひとつから出発したと推定されている。そして、これらの部族国家群のなかから新羅(古くは斯盧と表記)と百済がより大きな国へと成長し、北方から伸長してきた高句麗とともに三国を形成する。その間、南部の現・慶尚道の一角には加耶という小国連合があったが、徐々に百済、新羅に併呑されてしまう、というのが紀元前2、3世紀から紀元4、5世紀ころまでの朝鮮半島に関するきわめてラフなデッサンである。

 加耶七国といわれる加耶は加羅とも記され、これも羅国家群に数えることができる。

 このなかで、百済は拡張というだけでは捉えられない動きがあって、それは三韓の北限がどのあたりにあったかという問題と関わる。大雑把な理解では、三韓は朝鮮半島南部がその領域だったと考えられており、それはそれでいいのであるが、百済の中核部族は高句麗に近い北方からの移流民で、3世紀には漢江流域に国家的体制を整えつつあった。4世紀には現在のピョンヤン付近で高句麗とおおいに戦ったりもしている。漢江は現在もソウル市内を貫流する川で、その両岸には百済遺跡がたくさん発見されている。三韓から三国への歴史的視野は南部に限定せず、38度線の北までもみておく必要がある。

 しかし、百済は徐々に高句麗に圧迫されるようになり、5世紀後半には漢江ほとりの都・漢山が陥落、ついに現在の忠清南道公州に遷都せざるをえなくなる。三国鼎立の態勢が完成するのであるが、加耶(加羅)健在の時代の朝鮮半島南部に限っていえば、新羅、百済、加羅の三羅時代ともいえるであろう。説明が長くなったが、この公州の都が熊津である。なぜ熊なのか?

 百済は高句麗と同じ建国神話をもっていたのではないか。高句麗の先祖は、天帝の子孫である男性と熊女との結婚によって生まれたとされる。熊女のライバルに虎女がいたのだが、こちらは天帝の与えた試練に耐えかねて脱落し、熊女はがんばって結婚相手に選ばれたのだそうである。

 韓国アカデミーの初代院長だった李丙・という大学者がいた。韓国中央博物館館長を務めたあと、現在は龍仁大学校教授である考古学者・李健茂さんの祖父にあたられる。その方の熊に関する論文を昔読んだことがあるが、今、手許にないので、以下は最近とみにあやしくなった記憶に頼っての紹介であることをお断りする。

 李丙・先生によると、右の神話は高句麗の中核部族がもっていたクマ・トーテムに由来したもので、クマ・トーテムは北東アジアに広く分布するという。アイヌの習俗にもそのことは窺われ、現代韓国・朝鮮語でクマを指す「コム」は、アイヌ語のカムイ(熊、神)と同根で、それは日本語のカミ(神、上)に通じることばだろうと説く。おもしろい指摘だと思う。奥方のことを俗にカミサンなどというが、それは熊女に淵源するのか、というのはここだけの愚説です。

 百済が高句麗の鋭鋒を避けて南に新都を建設したとき、その名前として建国神話につながる熊の字を冠して熊津とし、国の安全と発展を祈ったのではなかろうか。鎮海付近が古く熊只という地名をもったのは、百済がここを南の海の出入り口として重視し、都の出先機関を設置していた証左かもしれない。

 熊只は新羅領になってから熊神と変わり、後年さらに熊川と称されることになる。高麗茶碗に熊川という一類があり、この場合は「こもがい」と読むことについては以前に述べたことがあるが、この「こも」はコムの転訛であると考えられる。井戸茶碗を含め、かなりの朝鮮王朝のやきものが熊川から日本に運ばれたであろうから、右の推定が正しければ、南へ開かれた港の機能は百済時代を超えて生き残ったことになる。熊川の入江は熊浦という。浦は浦口すなわち港である。大昔の歴史の残響が日本に伝わった茶碗からかすかに聞こえてくるように感じられるではありませんか。

 この一連のラ(羅)論のはじめに司馬遼太郎さんの『耽羅紀行』を引いた。ふつうにいえば「済州島紀行」でもいいようなものだが、司馬さんの感覚では済州島(現在の韓国の行政区分では済州道)でなく、耽羅でなくてはならなかったのだろう。済州の州は、国という統治機構の一部分であることを意味する。耽羅ならば一国である。司馬さんは、この島が長く独立した存在であったことを強く念頭において旅をした。ラを論じる拙文もまた、つぎに耽羅を徘徊しなければなりません。

【参考文献】
李基白『韓国史新論』一潮閣、1990