済州島。いろいろな意味で興味深いところである。伝説、歴史はもちろん、民俗、風光、食べ物……。前回、数人の友人と訪れたときは純然たる観光旅行で、海の幸を満喫した。アワビはもちろんだが、新鮮なタチウオやホヤがおいしかったですね。オメギ酒という粟を原料とした地酒を注文したら、その店では、今は工場生産の瓶詰めものしか手に入らないということで、それを飲みましたが、ちょっと残念。

「本耽羅国、或いはH羅と称す。全羅道南海中に在り。……初め良乙那、高乙那、夫乙那と称する有り。三人、其の地を分処し、その居る所を名づけて都と曰う。新羅の時、高乙那の後の高厚、其の弟二人と渡海して来朝す。新羅王、喜んで厚を号して星主と曰い、其の仲を王子と曰い、其の季を都内と曰う。仍ち国号を賜いて耽羅と曰う。」

 これが、前に晋州についても調べた『新増東国輿地勝覧』「済州牧」の建置沿革の冒頭である。牧というのは道の下の、府・郡・県と並ぶ行政単位である。この書が成った朝鮮王朝時代は、もちろんすでに耽羅が独立を失って久しいから、全羅道に属する一地方として扱われているが、済州がもと耽羅といい、H羅ともいった一国であったことが記されている。

 次に良、高、夫という三人の乙那なる人物のことが述べられる。彼らが耽羅の最初の人たちだというのである。乙那は日本語の大人(乙名)にも通じそうだが、よくわからない。この三人は地中から湧き出た神人だという、おもしろい伝説がある。これについてはあとで触れる。このうちの高氏の子孫の厚という人物とその弟たちが新羅に来朝して、新羅王からそれぞれの名と国号をもらった、というのが耽羅の由来として記されている。仲は兄弟の次弟、季は末弟を意味する。

『新増東国輿地勝覧』の済州の歴史に関する記述はさらに続きます。

 それによると、その後、一時百済に服していたが、百済が滅んだときに再び新羅に降り、高麗の太祖が朝鮮半島を統一すると、その翌年の937年に高麗に来朝した。粛宗10年(1105)には「H羅を改め、耽羅郡と為す」という(一時はH羅のほうが正式名称だったようである。このあたりまでは、まだ高氏が率いる半独立的存在であった)。毅宗(1146−76)のとき「降って県となり、官を令す」とあり、12世紀後半に至って、名実ともに朝鮮半島の体制に組み込まれた。これが済州島の大雑把な歴史ということになる。

 同書の「郡名」の項をみると、耽羅、H羅のほかに耽毛羅、東瀛州という名が出ている。高野史男氏によると、このほか耽牟羅、渉羅、度羅、毛羅という表記もあるそうだ。

 現代韓国語で耽羅はタムラ(実際には音便でタムナ)と読む。耽毛羅は同音に漢字を当てはめたものだろう。高野氏は玄平孝という人の説を紹介して、Tamは古代韓語系言語で「高い」という意味を表わし、トルコ、モンゴル、ツングース系語ではtak、dog、tan、日本語ではtakaに当たり、タムラは「高いところ」すなわち島央にそびえる漢拏山(ハンナサン)のことだという。

 金石範さんの大著『火山島』(この小説についても後日述べるつもりです)には渉羅のほかに・羅という書き方も紹介されていて、ともにソムラと読んで、「……ソムラ、ソムナラ―島の国、島の借字とされる」と書かれている。韓国語で島はソムで、国はナラであるから、たしかにそのような意味になる。・羅は「たんら」と読めば耽羅と同じでもいいだろう。毛羅はH羅の誤伝か、あるいは耽毛羅の耽が脱落したものか。度羅というのはよくわからないが、H羅と同系の語かもしれない。東瀛州は東海にあるという神仙の島の名を借りた美称である。

 飲み屋談義としては、悪酔いしそうなくどい話になったが、ともかく漢字化される前にタムラとかソムラという「ラ」があって、そこに音をとっていろいろな漢字を当てはめたことが推定される。漢字を、多くの万葉仮名のように、表音文字として利用したものだ。耽羅(とりあえずいちばん流布していたと思われるこの表記を使う)は三韓諸国、三国や加耶に含まれない独立した羅として、他の羅国家群が滅び去ったのちにも、12世紀まで生き残った。最後の羅国家だった。

 飲み食いばかりに気をとられてはいられない。とはいうものの、ここで美味なのは海産物だけではない。ウシ、ブタもなかなかいいのです。そして、アワビやウシ、ブタにはこの島の歴史が強くまとわりついている。そのことを次回に述べましょう。いい酒の飲み屋談義になるといいのですが。

【参考文献】
『新増東国輿地勝覧』東国文化社、1957
高野史男『韓国済州島 日韓をむすぶ東シナ海の要石』中公新書、1996
金石範『火山島X』文藝春秋社、1996