済州島が高麗王朝の体制に組み込まれてから100年ほどたった1270年、三別抄の残党が島に到着した。

 三別抄というのは、もともと高麗の首都圏を防衛するための武装警察軍で、三つの軍事組織から特別に選抜、抄出した精鋭部隊であった。モンゴル(蒙古)が高麗に侵攻すると、彼らは高麗王朝の意志とはべつに徹底抗戦を標榜し、南下しながら対モンゴル戦争(抗蒙)を続けた。一時は全羅南道の珍島にこもり、さらに済州島に至ったのである。

 天童よしみ嬢のヒット曲『珍島物語』をご存じの方は多いだろう。三別抄が拠点にした珍島は、まさにその島である。

 珍島は全羅南道の道庁所在地である木浦市からは目と鼻の先にあり、いまでは橋ができていて、木浦から車で行くことができるが、かつては船がなければ簡単に行けなかった。ここに砦を築いたのは、海に弱いモンゴル軍の鋭鋒を避けようという三別抄の戦略だ。珍島にはいま、そのときの城址が一部発掘されていて、資料館も建っている。山の中腹、海を見晴らす立地であるが、大勢の将兵を長期に養える場所ではない。結局、彼らが落延びた先が済州島だった。一般の済州島民にとって、敗残の軍兵は高麗王朝人同様、迷惑至極だったに違いない。1273年、モンゴル・高麗王朝連合軍の攻撃によって三別抄は壊滅した。このときの戦いを小説化した作品に、金重明氏の『抗蒙の丘 三別抄耽羅戦記』(新人物往来社、2006)がある。

 ウマだのウシ、ブタだのの話はどうなった? そうでした。食べ物の話でした。

 済州島はその後、モンゴルの支配下に置かれ、1277年にモンゴル(元)はここに牧場を拓いた。ヒツジも飼ったらしい。漢拏山の広い裾野には、現在も牛馬の放牧がみられ、島の観光資源のひとつになっている。済州島での大規模な牧畜は元によって始められたという。その後も牛馬の飼育が盛んで、朝鮮王朝時代、済州島が朝廷に送る貢物の主なものであった。

 アワビもまた貴重な貢納品だった。中央からこの島に派遣された済州牧使にとって、朝鮮王朝の国是たる儒教による島民の教化と、アワビを滞りなく朝廷に届けることは重要な役目であった。ここにひとつの矛盾が生じる。

 李衡祥という人がいた。文科及第の官僚として各地に任官したが、済州牧使として18世紀初頭に島に赴任したことがある。元来が学者肌の真面目な人だったようで、済州に着任すると、全島を巡歴して防御施設、軍隊や民衆の風俗を調べ、画工に命じて絵を描かせ、自ら説明文を加えて『耽羅巡歴図』という一書を成した。べつに『南宦博物』という書物も書いていて、これは島の物産に詳しい。

 さて、この李衡祥も当然、儒教倫理でイデオロギー武装をした人であったから、同姓婚を禁じ、シャーマニズム(現在も島ではその伝統が色濃い)や仏教を排斥して儒教化を進め、海人の裸体作業も禁止したという。儒教(だけではないが)は、人前で肌を露出することをよしとしない。当時は男性の海士もいた。李先生、全島を巡視しているときに、男女の海人が裸体同然の姿で潜水してアワビをとっているのをみて、「これではならん」と思ったのであろう。

 イデオロギーは、しばしばワイセツを嫌って、過度にものごとをワイセツ視するようなところがある。昔から裸体同然で潜水漁をするのは、それが便利だからで、当人たちにはワイセツ感もなにもなかったはずである。そこにハダカはワイセツである、という古代中国製の観念を持ち込んだ。業とはいえ人前で肌をさらしてはならない、ということで海士漁を禁じてしまった。儒教は男性中心の思想で、たてまえとしては男性にやかましい。女子はまあ仕方がない、というわけで、着衣であれば潜水を許した。着衣といってもチマチョゴリでは潜れない。そのあとに中央から来島した人の島の女性を詠んだ詩には「潜女の衣裳 一尺の短」だの「身をさらして裙をなさず」といった語がみえる。いずれも裾が短く、裸の脚がみえることをいう。きびしい重労働に従事する島の女性には、都人の目もまた迷惑至極だったに違いない。

 要は、済州牧使として都にアワビを送る必要があり、一方で儒教倫理も推進しなければならなかったのだ。海女を残したのは窮余の一策、妥協の産物である。島が陸地(済州島での朝鮮半島の呼称)に帰属することの意味のひとつは、ウシやアワビなどの美味が都に運ばれることだった、といえる。いまは貴重な観光資源なのです。

【参考文献】
泉靖一『済州島』東京大学出版会、1966
金奉鉉『済州島流人伝』国書刊行会、1981
済州特別自治道・韓国国立民俗博物館『ホボックと済州の陶器』、2007