ブタの飼育はモンゴル風放牧とは事情が違うように思える。

 済州島では前世紀中葉まで、ブタは人糞を餌としていた。いまはもちろんそんなことはしていない。ブタをトイレで飼う方法は、中国では古来普通のやりかただった。漢代の明器(墓の副葬品)として作られたやきものの豚舎などからその具体的な様相を知ることができる。

 中国では猛女、悪女がときどき現れて、歴史をどぎつい極彩色でいろどる趣があるが、その代表格のひとりが、『史記』に歴代皇帝と並んで本紀に入れられた呂太后であることは間違いない。彼女は、秦に代わって漢帝国を打ち建てた劉邦(高祖)の妻である。「人となり剛毅にして、高祖を佐けて天下を定め、大臣を誅するところ呂后の力多し」と司馬遷は簡潔にその性格、力量を要約している。高祖は天下を取ると、それまでの多くの功臣たち、黥布や韓信などを誅殺していったが、それには彼女の力がおおいにものをいったらしい。

 高祖の愛情はしかし、天下統一の前から戚夫人という女性に移っていた。前195年、高祖がなくなると、呂后は戚夫人の手足を断ち、眼をえぐり、耳をWべ、毒を飲まして、目もみえず、耳も聞こえず、声も出せなくしてトイレの中に入れ、人?と呼んだ。?はブタのことである。悪趣味なC級ホラー映画(あまりみたことはありませんが)でも描写をはばかるであろうと思われる情景だが、呂后の発想の背景には中国古来のブタの飼育法がある。

 陸地にはふつう、このような方式のブタ飼育の伝統はないとされる。どうやら、耽羅(済州)の養豚法は、元の支配が及ぶはるか以前に中国から伝わったものであるらしい。

 以下は、ブタと直接の関係はないが、耽羅と中国との古い関係を窺わせる話である。それは、前々回にちょっと触れた良、高、夫という三人が地中から湧き出て耽羅の最初の人間になったという伝説に関わる。まず『高麗史』をみてみよう。

 耽羅県 全羅道南海中に在り。その古記に云う。太初、人物無し。三神人、地より聳出す。長は良乙那と曰い、次は高乙那と曰い、三は夫乙那と曰う。三人、荒僻に遊猟し、皮を衣とし、肉を食す。

 前にみた『新増 東国輿地勝覧』と重なるところがあるが、これによると、「済州島には初めヒトがいなかったが、良、高、夫という三人のヒトが地中から現れ、山野で狩りをして暮らし、皮の衣を着て、肉食をしていた」という。

 済州市の旧市街に「三姓穴」という場所がある。遺跡といっていいのか、神跡? といったほうがいいのか、よくわからないが、現在はきちんとした門構えで塀に取り囲まれ、外国人は入場料も徴収される観光施設となっている。ここが三神人の湧き出したところだそうだが、神人たちの姓が問題である。これらが中国に由来する姓らしい、ということを石宙明(1908〜50)という篤学の士がかつて述べている。

 石さんの著書の筆者紹介によると、彼はピョンヤンの出身で、開城で学んだあと、鹿児島高等農林大学を卒業した。第二次世界大戦後、韓国の水原農事試験場や国立科学博物館で生物関係の要職を務めた。とくにチョウ類に詳しく、「蝶博士」の異名があったそうである。戦前の1943年から45年まで、京城帝国大学(ソウル大学の前身)付属済州島生薬研究所所長として済州島に赴任した。そのときの調査を基にしたのが『済州島資料集』である。

 お会いしたこともない人を篤学といったのは、この書をみて、つくづくそう感じたからである。専門の昆虫学にとどまらず、自然、方言、人口論、文献など、著者の関心はまことに幅広い。もとよりご当人の向学心の故であるが、済州島自体にも人の知的関心を喚起するものがあるのだろう。前回に引いた『済州島』の著者、泉靖一さんの場合もそうだった。この書の「まえがき」にはつぎのように書かれている。

 一九三五年の十二月から翌年の一月にかけて、私は山岳部の友人たちと漢拏山の登攀を計画し、一九三六年の一月一日にとうとうその頂上に到達したのだが……岳友の一人前川智春君をそののち失ってしまった。それは私にとっては、大きな衝撃であった。〔中略〕この遭難がきっかけとなって、国文学を専攻していた私は、文化人類学に専攻を変える決心をした。そして、一九三六年から一九三七年にかけて、憑かれたもののように、済州島の村々を歩いた。〔後略〕

 石さんも泉さんも、済州島の自然や民俗に魅せられ、二年ほどの間ではあったが、島内をひたすら歩きながら研究したのだった。昔の風景、風俗は急速に薄れつつあるが、たしかにこの島には、老生のような者にも知的な興味をそそる魅力が今もある。この話、次回に続きます。

【参考文献】
『国訳漢文大成 史記一 経子史部 第十三巻』国民文庫刊行会、1922
東方学研究所『高麗史』景仁文化社、1976
石宙明『済州島資料集』(済州島叢書E)、宝晋斎、1971
泉靖一『済州島』東京大学出版会、1966