まわり道をしたが、石さんがベトナム語や中国南方方言に詳しい知人の知見を借りつつ研究した結果によると、中国の海南島からベトナムにかけて、高、梁、符という三姓がかなりあることがわかった。そして、「昔、福建省から海南島に渡ってきた人びとのなかには高、梁、符の三姓が多かったようで、中国本土では盛んでなかったものが、南進した後、繁栄したとみられ」、これは「済州島の三神人が地から湧きあがったという話に結びつけて考えなければならないだろう」という。

 私自身は、福建省や海南島、またベトナムでこれらの三姓がどういう位置を占めているのか調べたことはないが、とりあえず石説の線で考えてみよう。良と梁、夫と符は、それぞれヤン(またはリャン)、プと読み、少なくとも現代韓国・朝鮮語では同音である。海南島の高、梁、符は、たしかに済州島の高、良、夫に対応しそうである。

 しかし、いかに神人といえども、男性だけで子孫繁栄は望めない。その点まことに好都合なことが三人に起こった。再び『高麗史』の記述による。

 一日、紫泥により封蔵せる木函、浮いて東海の浜に至る。すなわちこれを開けば、函内にまた石函有り。一の紅帯紫衣の使者の随い来たる有りて石函を開くに、青衣の処女三およびもろもろの駒、犢、五穀の種を出現す。

 ある日、済州島の東の浜辺に木箱が流れ着いたので、開けてみると、なかにもうひとつ石製の箱があった。紫の衣に赤い帯を締めた使者がこれを開くと、青い着物の若い女性が3人とウマ、ウシ、五穀の種子などが出てきた。

 小型の「ノアの方舟」といった趣である。済州島の観光地図には、西海岸に「三姓女漂流地」という場所が表示されているが、私はまだ行っていない。1965年刊行の『済州島』(大韓地誌T)の観光資源名リストにはこの名前がない。当時は存在が知られていなかったか、観光資源と見なされていなかったようである。

『高麗史』には続いて使者の口上が記されている。なんと、一行は日本から来たという。

 すなわち曰く。我はこれ日本国使なり。吾が王この三女を生じて云く、西海中嶽降の神子三人、まさに国を開かんと欲するも配匹無し。ここに臣侍に命じて三女以って来たり、爾宜しく配を成し、以って大業を成すべし、と。使者、忽ち雲に乗じて去る。

「自分は日本国からきた使いである。われらの王にこの3人の娘ができたが、西海中の山に降った三人の神の子が国を興そうとしているのに、つれあい(配匹)がいない。そこで、結婚させて、建国の大業を成就させよ、と王が自分に命じたのだ。」こういい終ると、使者はたちまち雲に乗って飛び去った。

 地面から湧き出た三神人が、ここでは天下ったような記述になっている。しかも、ただ狩猟経済に従事していただけではなく、開国の大望があることを日本の王が察知したらしい。そこで、3人の娘に添えてウマもウシも穀物も嫁入り道具に持たせましょう、という行き届いた話である。そして女性と嫁入り道具を三神人に引き渡すと、使者は雲に乗って去っていった。去り方は、海中を漂ってきたにしてはスピーディで、なにやら中国の仙人の趣がある。

 右の耽羅建国神話からなにがいえるか? あまりたいしたことはいえそうにないが、想像も少し交えながら考えてみましょう。

 三神人の姓からのみ考えると、済州島の人びとの祖先は海南島あたりを経由してきた福建人であるらしいことになる。福建人は昔から海外進出に積極的だとされ、台湾の人たちとは血縁、言語などで深く結ばれている。沖縄の墓制にも福建色が濃いし、日本中世には福建製品がたくさん入ってきている。日本の茶道文化で重要な役割を果たした建盞・天目という茶碗類や唐物茶入の多くが福建省産である。近世では長崎にも福建人、福建モノが渡来している。

 日本だけではない。朝鮮半島でも近年、建盞・天目の破片が寺院址などから出土しているし、出どころは明確ではないが、宋・元代の福建産鉄絵陶磁は韓国内でかなり見かける。済州島に福建由来の人たちが古くから住みついていても不思議ではない。しかし、ことはそれほど簡単ではない。朝鮮半島で姓が中国風になるのは統一新羅のころからと考えられ、耽羅時代の済州島人が早くから高だの良だのと名乗っていたかどうかは疑問がある。

 日本国を名乗る使者はさらにあやしげで疑問が湧くが、それは次回に。

【参考文献】
石宙明『済州島資料集』(済州島叢書E)、宝晋斎、1971
東方学研究所『高麗史』景仁文化社、1976
禹楽基『済州島』(大韓地誌T)韓国地理研究所刊行部、1965