高・良・夫の三神人が地中から湧き出して、狩りにいそしんでいたのがいつのことかわからないが、まだ日本国なるものは存在していなかったはずである。箱に入れられて漂ってきたという三人の日本産の姫君の件は、話としてはおもしろく、想像を刺激されるが、「日本」ということをあまり詮索してもしかたがないように思われる。

 始祖伝説はあくまで伝説である。現代のさかしらで無理やり合理的な辻褄合わせをしようとすると、かえって迷路にはまり込みそうである。しかも『高麗史』が完成したのは朝鮮王朝時代の文宗元年(1451)のことだ。朝鮮半島の支配層の文化が中国風に染まってすでに長い。『高麗史』自体が全文漢字で表記されている。いま、韓国・朝鮮でもっぱら使われているハングルという自前の文字が公布されたのは文宗の前の世宗王の時代(1446年)であるが、これはもともと女性や庶民の文字として作られ、士大夫の用いるものではなかった。

 地名の多くが高麗時代のはじめころまでに中国風に改められ、歴史叙述も中国的なものになった。というよりも歴史を文章化するという営為そのものが中国からの感化で、わが『日本書紀』もその点同様である。済州島の子孫繁栄のきっかけを告げる使者の行く末を「忽乗雲而去」(たちまち雲に乗じて去る)と表現したのは、叙述者の中国にならった文章感覚である。話の骨子にも外来風のところがあることは後述するが、あえて「現代のさかしら」を発揮すると、そこに済州島の地政学的位置が少しみえてくるような気もします。

 耽羅が百済や新羅の干渉を強く受けるようになるにつれて、羅という自然発生的なクニの神話・伝説を再構成して当世風の「国」であることを主張しなければならない必要が生じたことは容易に想像される。神人が地中から湧き出たという物語自体はそれ以前から耽羅の神話として存在していたであろう。そこに、羅の有力支配層として台頭してきた福建系(?)の姓を移植し、陸地の百済や新羅とは違って、耽羅と似通った風俗を持っているらしい海国の「日本」をさら接ぎ木したのではあるまいか、というのがとりあえずの愚考である。済州島が耽羅として、独立のクニであり続けようとする苦心が『高麗史』に投影しているように感じられます。

 ヒトが地面から湧き出た、という話には中国西南部に類似するものがあって、石宙明さんも注目している。それは『後漢書』の「南蛮西南夷列伝」に出ている次の記事である。

 巴郡南郡の蕃、本と五姓有り。巴氏、樊氏、氏、相氏、鄭氏なり。皆な武落鍾離山に出ず。その山、赤黒二穴有りて、巴氏の子は赤穴より生じ、四姓の子は皆な黒穴に生ず。未だ君長有らずして、倶に鬼神を事とす。すなわち共に剣を石穴に擲ち、約して能く中たる者、奉じて以って君と為す。

 いまの四川省東部および重慶市あたりから湖北・湖南省にかけて住んでいる(漢人からみての)外人には、もともと巴氏、樊氏、氏、相氏、鄭氏という5つの姓があった。すべて武落鍾離山の出身である。その山には赤と黒のふたつの穴があって、巴氏は赤穴から、ほかの四姓は黒穴から生じた。最初は指導者もいなくて、鬼神に仕えていたが、剣を岩穴に当てる競争をして勝った者を主君にすることと決めた、というのである。武落鍾離山というのがどこを指すのかは詳らかにしない。湖北省にかつて鍾離城という場所があったが、該当するのかどうか。『後漢書』の記述はさらに続く。

 巴氏の子務相乃ち独り之を中て、衆皆な歎ず。又た各土船に乗ぜしめ、約して能く浮く者、まさに以って君と為さんとす。余姓悉く沈むも、唯だ務相独り浮く。因りて共に之を立て、是ち廩君と為す。

 巴氏の子の務相という者だけが命中させることができ、みなが感心した。さらに各人を土製の船に乗せて浮かぶものを主君としようとしたが、やはり務相だけが浮いた。そこで務相を立てて廩君と称した。

 じつは、耽羅の三神人には弓矢を射る話が『高麗史』にある。三神人が流れついた三人の女性とそれぞれ結婚したあと、よい水の出る泉と肥えた土地に矢を射て占い、住み分けたというのである。

 こうしてみると、ヒトが出てくる穴や剣・弓に、『後漢書』と『高麗史』との記述の間には偶然と思えない一致のあることがわかる。石さんは『後漢書』のこの伝のことを、鳥居龍蔵の『苗族調査報告』を参照しつつ引いたという。鳥居報告のことは、当時、韓国の国立博物館におられた金元龍さんから教わったらしい。というところで以下次号。

【参考文献】
石宙明『済州島資料集』(済州島叢書E)、宝晋斎、1971
東方学研究所『高麗史』景仁文化社、1976
宋范曄撰・唐李賢等注『後漢書』第10冊、巻八二至巻九〇(伝九)、中華書局、1965年