鳥居龍蔵博士(1870〜1953)の名をご存じの方は多いだろう。独学から出発した日本における人類学、民俗学の先駆者で、日本と周辺地域を広く踏査した人として知られる。博士が中国西南部で民族学的調査を行なったのは明治35年から36年(1902〜03)にかけてのことで、湖北省、雲南省、四川省などで、騎馬や徒歩によって山川を越える苦難の調査行に従事した。前回紹介した苗族の赤穴・黒穴に関わる始祖伝説は、この調査に関連して博士が注目したものである。

 苗族―ミヤオ族、メオ族ともいう。中国西南部から東南アジアにかけて分布する。自称はモンまたはムン、ムーである。湖南省が源郷だという説があり、もともとは長江以南に広く分布していたと考えられている、いわゆる「百越」のひとつであろう。種族的、言語的には複合的で、系統論も簡単ではない。

 だいたいが少数民族という言い方は近代のもので、漢族などが大量に南下した結果として、相対的に少数化したものにほかならない。中国では雲南省が少数民族人口の多いところだが、昆明市の友人の冗談のひとつに「ここでは漢民族が少数民族だ」というのがある。現在は漢族が多数派だが、近世以前はたしかにそうだっただろう。

 金元龍博士(1922〜93)のほうは、日本では一般的にあまり知られてはいないかもしれない。しかし、韓国の考古学や古代史、さらには美術史に関心の深い方にはお馴染みの名前だろう。日本で翻訳されている編・著書、論文もかなりある。とくに韓国の考古学界ではパイオニアとしての役割を果たした人だが、博士はもともと文学を志していたという。第二次世界大戦が終わって、朝鮮半島が日本のクビキから解放されたとき、青年期にあった金先生は自分が目指していた文学が日本近代のそれであったことに思い至る。日本が朝鮮半島の人たちに固有の言語の使用を禁じていた時代、それが自らの青春に重なっていたのである。韓国が独立国家として再出発したとき、自国をよりよく知るため、考古と歴史の研究に自己の進路を転換した。その後は学究生活に没頭し、国立博物館の館長を経て、ソウル大学校教授を務め、多くの研究者を育てた。

 鳥居博士の謦咳に接したことはないが、金元龍先生には一時期よくお目にかかった。私がお会いしたのは1970年代、先生がソウル大の教授をされていた時代である。鋭い知性と感受性が男性ホルモンに蓋われているような人柄だった。学究生活のなかに文人的志向はなお伏流していて、エッセイを数々ものし、また酒中に描く水墨画も人気があった。大学の研究室の机の横にはいつも「遺書」と墨書した袋がピンで留めてあって、「毎年正月に書きかえています」という。原稿締切に関しては自他を律すること厳しい人で、かならず締切を守るかわり、期日に取りに来なかった原稿は渡さないことにしていると、これも直接にうかがった話である。

 あるとき、拙宅にソウルで催した金先生の個展の図録が送られてきた。その少し前に随筆にあった愛犬の話を興味深く読んでいたので、礼状にわが飼い犬の下手なスケッチを添えてお送りした。それから一か月以上経って、少し文字が水ににじんだハガキが届いた。「貴君のイヌの絵は天下の名筆である」というようなことが書いてあった。先生にしてはずいぶん遅い返事だなと思って、表を確認すると、船便であった。返事自体は私からの便りをみて、たぶん即日書かれたにちがいない。その後、しばらくして酒席の帰りに自宅玄関前で倒れ、そのまま息を引き取られたと聞く。日本のドジョウ料理を好まれ、一度ごいっしょしましょうといいながら果たさないままになった。悔いが残っている。

 本題に戻る。

 鳥居博士の問題意識のなかには当然ながら、日本民族ないしその文化の起源についての関心がある。中国西南部の少数民族の文化に、稲作、草履、下駄、高床式家屋や屋根の千木など、日本文化の構成要素と共通するものを発見しては書き留めている。また、中国西南部と台湾との文化的関連については興味をもっていたが、当時、済州島については格別の関心はもっていなかったのではないかと思う。しかし、鳥居博士が書き抜いた苗族の始祖伝説に金博士が目をとめ、済州島のそれに繋がりそうだと石宙明さんに伝えたのだろう、というのが前回のやや長い補足説明である。

 ただし、ここで済州島と苗族を直結させようと私が主張しているのではない。耽羅の三神人と苗族の祖先との関係に慌ただしい判断は禁物である。始祖伝説の類似や比較はあくまで慎重でなければならない、という前提のもとに、次回は『日本書紀』おける耽羅関連記事をみてみましょう。

【参考文献】
鳥居龍蔵『中国の少数民族地帯をゆく』(朝日選書162)、朝日新聞社、1980