済州島がいつから耽羅といわれるクニになったのか?

 クニの定義自体がむずかしいから簡単ではないが、三姓神話はともかくとして、済州島の大部分に権力が浸透して、統一状態になったときがそれだ、と一応はいってもいいだろう。

 倭人伝でおなじみの『三国志』「魏志東夷伝」の馬韓の後に「……州胡、馬韓の西海中の大島上に有り」という記事がある。馬韓の西の海中にある大きな島といえば、だれしもまず済州島を頭に浮かべる。これが済州島人のことを指していると推定することには無理がない。次のような内容だ。

 また州胡と呼ばれる民が、馬韓の西方の海中の大きな島に住む。その人は身の丈がやや小さく、言葉は韓とは異なる。みな頭髪を剃っているのは鮮卑に似ているが、ただ〔鮮卑とは違って〕韋の衣服を着、牛や豬を盛んに飼う。その着物は上着だけで下はなく、ほとんど裸とかわらない。船で往来し、韓の土地にやってきて交易を行なう。(今鷹真・小南一郎訳)

 身なりは三姓神人を思わせるが、狩猟経済からすでに牧畜経済に発展している。漁労のことが出てこないのが不思議であるが、情報に欠落があったのかもしれない。『三国志』では、潜水漁業は、むしろ倭人の風俗として出てくる。

 そこ〔末盧国〕には人家四千余戸があり、山と海にはさまれた海岸地帯に住んでいる。草木が繁茂して、道をあるいていると前を行く人が見えない。魚や鰒をとることに巧みで、水がいかに深かろうとも、潜って取ってくる。(同右訳)

 というのがそれで、さらに倭人の男子が入れ墨(黥面文身)をしていて、それは潜水するときに大魚や水禽を避けるためであったのが、飾りに変化したものだという説明も後段で補記されている。

 さて州胡であるが、まだそれらの人びとがクニを成していないというのが当時の中国(魏)の認識だったと読める。昔の中国人にとってクニとは、「國」という字が示しているように一定の地域(或)が囲まれている(□)状態で、この囲みは具体的な存在としては周溝や城壁であるが、抽象的には住民が王権・軍隊・警察あるいは法や制度などの強制力の下にあることでもある。州胡は、朝鮮半島南部と往来して交易はやっているが、右のような形でのクニではないと考えられていたのであろう。

「耽羅」という名称は、中国の史書『三国志』ではなく、朝鮮半島の史書の『三国史記』「百済本紀」に出てくるのが最初らしい。百済文周王2年(476)に「夏四月、耽(耽)羅国方物を獻ず」というのがそれである。

 はなはだ大雑把な推定だが、『三国志』の成立した3世紀を少しさかのぼる、元情報が中国にもたらされた時期と、5世紀の間あたりにクニ(羅)としての耽羅が成立したのではなかろうか(『三国史記』の成書自体は1145年)。

 済州市龍潭洞に、その地名を冠して龍潭洞古墳と呼ばれる遺跡がある。行ったことはないが、海岸から少し離れたゆるやかな平地に位置しているそうである。墓群の中心部で発見された石槨墓とその周辺からは、鉄剣と剣の装飾具のほか、鉾・斧・鏃など多くの鉄器が出土した。済州島では鉄が生産されていなかったから、これらの鉄器は大陸からの輸入品である。舶来の鉄製武器とともに葬られた人物は、すでに地域の支配者ないし支配階級の権力者であったはずだ。この古墳群が形成された2〜3世紀ころは、済州島内で同じ型式の土器が広く分布する時期でもある。『三国志』の著者の陳寿が魏の歴史のなかに州胡の情報を書きとめていたころ、州胡の地はすでにクニへの成長過程にあったと思われる。

 中国が後漢末から三国時代にかけて(2〜3世紀)の動乱で、東アジア世界での求心力を低下させていた時期に、朝鮮半島や日本列島などの周辺地域ではいくつかのクニが古代国家としての形を整えつつあった。朝鮮半島の三国(高句麗・新羅・百済)もそうだし、邪馬台国もそうだっただろう。州胡の地もまたそのような趨勢のなかで、島内の権力集中と階層化が進んで、耽羅となっていったに違いない。舶来の武器を伴う墓の出現や同一様式の土器の普及はその証しだとみられる。

 しかし同時に、戦争の先端技術(鉄製武器)を輸入したということは、近隣の武器製造地域からの圧力にさらされることでもある。武器の売り買いの危うさは古今東西変わることがない。

【参考文献】
陳寿著・裴松之注(今鷹真・小南一郎訳)『正史 三国志4 魏書W』ちくま学芸文庫、1993
『三国史記』(韓国古典叢書2)韓国民族文化推進会、1973