考古学による調査結果は、漢人から州胡と呼ばれていた済州島の人びとが、朝鮮半島南部の韓の人びととの交渉を深めながら、耽羅というクニを形成していった歴史を物語っている。そこには『高麗史』に描かれた三神人や日本から流れ着いた三処女といった牧歌的な建国神話の世界とは異なる現実があって、やがて羅という小国がより大きな体制に呑みこまれ、近代国家による現在の領域の原型が形作られていく過程もかいまみえるように思われる。

 ところで、済州島を訪れたことのある人はご存じだろうが、済州島の観光パンフレット類の説明では、三神人に嫁いだ処女たちは日本からきたことにはなっていない。「碧浪国」からきた、という。

 たとえば、『耽羅王国の発祥地 三姓穴』というタイトルの日本語パンフレット。

「……五穀の種と家畜を持ってきた碧浪国の三人の姫……」とある。

 碧浪国とはあまり聞かない名前である。ふつうの韓国語辞典の類には出てこない。念のために韓国で出版されている事典をみても、この国に出会わない。韓国精神文化研究院編纂部による『韓国民族文化大百科事典』や李弘稙博士編『国史大事典』にこういう項目はない。

 韓国語の「ウィキ百科、われわれみんなの百科事典」というネット情報を調べてもらったところ、やっとありました。「全羅南道莞島郡の昔の国名」だそうである。続いて、この碧浪国は「耽羅に農業と家畜、織物、衣裳、国家組織を伝えた」、かつての耽津県の南の島で、「高麗時代から朝鮮後期までの各種の地誌には碧浪島が康津県の島として記録されている」という。少し説明がいるかもしれない。

 耽津というのは、現在の全羅南道康津郡を構成する部分の古地名である。その南西にある島が莞島で、現在は道路が通じ、車で渡ることもできる。碧浪島は、その莞島の南の海上にある島だそうである。

 前々からお世話になっている『新増 東国輿地勝覧』「康津」の山川条にはたしかに「碧浪島」の名があり、「周四里」と付記してある。韓国の里は400メートル弱だから、周囲1600メートルに満たない小島である。

 もうひとつ、『大東輿地図』という朝鮮王朝時代の地理書があり、私は直接その書をみていないが、『韓国民族文化大百科事典』の「莞島」項に地図の写真引用があって、莞島の南にたくさんの小島が描かれているなかに「碧浪」の字が添えられている島がたしかにある。

 これ以上調べていないが、碧浪国がこの島を指すのであれば、老生の住むご町内よりも狭い面積の島が、かつて農業や牧畜のみならず国家組織まで有するクニであったことになる。誤解をされるといけないので、あわてていっておきますが、私は小国だからといって軽視しているのではない。大国主義にはおおいに疑問を抱いている人間で、ことに近代以後の「ネイション」大国家には、むしろ嫌悪感がある。ながながと羅という古代国家について拙文を草しているのは、近代国家以前の小さなクニをなつかしいような思いで想像しているからにほかありません。

 がしかし、碧浪島はあまりに小さい。

 周四里の島で、周囲は海だから漁業をやり、農業を営み、牧畜を行なったとして何人の人間が生きていけるのだろう。ここに自立したクニがあったとしたら、ほとんど理想的ともいえそうな、国民全員が顔見知りという極小の国家組織だったかもしれない。青い波を意味するその名も美しい、そんなクニから3人の若い女性が流れ出ていった。イメージはきれいだが、ノアの方舟がそうであったように、碧浪国になにか災厄が襲ってきて、3人は逃げ出したのでしょうか。

 まあ、そんなことを詮索してみても仕方がない。結論からいえば、済州島の観光パンフレットなどに書いてある「三姫の碧浪国出身」説は、現代に創作された新たな神話だろうと思います。おそらく耽羅建国神話に「日本」の名が関わることを嫌ったのでしょう。「日本からの三処女」だって、どうせ史実ではないから、そういう話が『高麗史』に書き加えられた事情を考えることは必要だが、それ以上の意味をもたせるべきではない。「日本」ではなく「碧浪国」だといいたい根底にあるのは、おそらく近代的な国家意識で、それを考えると、美しかるべき話も少しうっとうしい。

 第二次世界大戦末期に、済州島でアメリカ軍の攻撃を迎え撃とうという日本軍の計画があったという。結果的に沖縄が「決戦」の名で呼ばれる悲惨な戦場と化したのだが、それは済州島で行なわれたことだったかもしれないのである。済州島の人たちにとって、「日本」ということばは、それこそかなりうっとうしい一面をもっているのでしょう。

【参考文献】
韓国精神文化研究院編纂部『韓国民族文化大百科事典』1989
李弘稙博士編『国史大事典』百萬社、1979
『新増 東国輿地勝覧』東国文化社、1957