松井家は、もともと室町時代に足利将軍家に仕えていた一族である。戦国末期に、やはり足利将軍の身近に仕えていた細川藤孝(幽斎)に従うようになり、細川家が大名となるに伴い、その筆頭家老職を担う家柄となった。細川家が熊本城主になった後、八代城を預かって明治維新に至った、というのが肥後松井家のおおまかな歴史である。現在、その伝世品の多くが松井文庫(熊本県八代市)に保管されている。

 千利休と松井家との関わりはよく知られていて、私が今回の展示を見に行ったいちばんの目的は、利休のひとつの手紙にあった。当時の松井家の当主・康之に宛てた天正十九年(1591)二月十四日のもので、利休が自刃する14日前に書いた現存する利休最後の消息である。内容は、「(豊臣秀吉からの)御使者が来て、京から堺に下るようにとのことだったので、にわかに昨夜まかり下ってきましたが、淀の舟本(船着き場)で羽与(細川三斎)様と古織(古田織部)様が見送りに来られたのを見つけて驚きいりました。まことにありがたいことで、よろしくお伝えください」といった意味のことが書かれている。この舟本がどこだったか、淀川の始点になる大山崎の辺りを徘徊したことがあるが、川筋が大幅に変わっているので、特定するのはむずかしいようである。写真図版ではしばしば紹介されているものだが、実物をともかく見てみたかった。

 今回の展示でもまっ先に掲げてありました。老生の節穴で実見して、あらためて何がわかったというわけでもないが、このような手紙が長く大事に保存されてきたことがありがたい。松井家には利休の消息が6通残っているそうであるが、そのうちの3通が展示されていました。

 織部の書状が2通。いかにも自在な筆の運びで、これもよかった。ほかに幽斎、三斎の書もあって、幽斎の和歌懐紙などは、さすが古今伝授の人の手蹟であると、これは書の素人の素朴な感想です。

 もちろん茶道具はたくさん出品されている。秀吉から拝領した茶壺やご当地八代の鉄釉筒茶碗なども面白かったが、ここでは「南蛮締切耳付水指」を紹介しておきたい。

「南蛮」ということばは、日本史ではポルトガル、スペインを指すことが多いが、ここではベトナム製の焼締陶器を中心とする概念で、この水指もベトナム製品と考えられる。いわゆる共蓋で、蓋のつまみは果物のヘタについた枝の切れはしのように折れた形で、胴の肩の辺りにつけられた耳も左右の形が違うなど、南蛮らしい対称性をやや度外視した作りである。また胴にはなにかで押したような窪みがつけられていて、水平に細かく筋目を入れた丸胴に変化が加えられている。解説によると、同形の水指がほかに2点伝世しているそうである。そのうちのひとつは拝見したことがあるが、たしかによく似ていて、同じ工人の手になるものかもしれない。織部から松井家に贈られたものだというのも面白い。つまみや耳の形は、今や織部の代名詞のごとくになっている「へうげ(ひょうげ)」た風情といえなくもないだろう。16世紀後半のものか17世紀に入ってからのものか、議論のあるところだが、今回は17世紀としてあった。ひとつの見識である。

 並行して相国寺の承天閣美術館で「肥後松井家の名品 武家と能」展が開かれているので、ぜひそちらも見て下さい。