ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

V 諜報戦は激しさを増す

 やっぱり怪しい、と江梨子は思った。
 ギロチンハウスには、引き戸の斜め上方に分電盤が取り付けられている。よくあるベージュ色の箱型で、ブレーカーのスイッチもいくつかついている。一見、なんの変哲もない分電盤に見える。でも、よくよく見てみると、その左上に小さな丸い穴が空いているのがわかる。
 ──あれは多分、隠しカメラだ。
 分電盤の中に小型のカメラが仕込まれている。あそこからなら、おそらくハウスの内側全体を捉えることができる。
 ハウスの外に出たままなかなか戻ってこない住人が出たとき、必ずといっていいほど監査部の社員がやって来る。それはやはり、偶然ではなかったのだ。自分たちはずっと監視されているということだ。パソコンの検索履歴も、メールの内容も、当然全て把握されているだろう。ハウスのあちこちに盗聴器が仕掛けられている可能性もある。
 トントン、とテーブルを叩く音がした。下島だ。伝えたいことがあるときの合図だった。
 身体を反らして横目でうかがうと、テーブル中央の勝見のスペースにメモ用紙が載っていた。下島からの伝言だ。前を向いたままパーテーションの向こう側に腕を伸ばし、それを摘まむ。
 メモ用紙の上には、下島らしい、ちまちまとした文字が並んでいる。
『勝見君は今日はどうしたのでしょうか』
 すでに午前九時を過ぎていたが、勝見はまだ出社していない。そのことについては、今朝早く電話で連絡を受けていた。
『坂口好美さんの件で警察に行くので今日はお休みするそうです』
 下島の質問の下に書き込み、メモ用紙を素早く勝見のスペースに置く。下島がそこに手を伸ばす。
 幸運なことに、江梨子たちのテーブルは隠しカメラから一番遠い位置にあるし、高いパーテーションで手元は完全に隠れているから、メモのやり取りを気づかれる心配はほとんどない。それでも、大きな動きをすると怪しまれる。顔を前に向けたまま、慎重に、素早くやらなければならない。
 小中学校時代に、先生の目を盗んで、友だちの間でどうでもいい内容のメモを回し合ったものだが、それを思い出させる。いい年をした大人がやるようなことではないが、監視の目を逃れながら意思を疎通させるためには仕方がない。
 今日はまだ、監査部からお目付け役は来ていない。住人たちは、ネットサーフィンをしたり、新聞や雑誌を広げたり、居眠りをしたりと、思い思いに時間を過ごしている。週末までに課題のレポートを書かなければならないが、そんなことをしている住人はひとりもいない。
 さて、自分はこれからどうやって過ごそうか、と考えたとき、テーブルの上に置いていたスマホが振動した。すぐに手に取り、画面に目を落とす。
 メールが届いていた。立浪麗子からだ。
〈今日は予定通り〉
 それだけが記されていた。
 麗子とは、昨日の夜、会う予定になっていた。そのとき、社内にいる協力者と対面させてもらえることになっていた。ところが、突然坂口好美の死亡が発覚し、そのために延期となっていた。
〈了解〉
 とだけ打ち、メールを送信する。
 ──いよいよ本格的な作戦会議に入る。
 胸が高鳴った。こんなに燃えるのは、経営企画部の課長に昇進したとき以来だ。
 江梨子はペンを取った。
『公園会議は今日はなし』
 麗子と会うのは遅い時間だから、公園会議ができないことはない。ただ、下島のことが少し気になっていた。精神的にやや追い込まれているように見えるのだ。勝見もいないことだし、今日はお休みしたほうがいいだろうと思った。
『今日はのんびりしてください。明日話すことがあります』
 そう書き添えて、メモ用紙を勝見のスペースに置き、トントン、と軽くテーブルを叩いた。
 下島の手が伸びるのが、横目で見えた。


 尾行があるかもしれない、ということで、午後五時にギロチンハウスを出ると、江梨子はまず、自宅マンションに向かった。
 ──警察の張り込みではないから、一晩中見張られることはない。自宅に帰り着いてしばらくしたら、尾行はいなくなる。
 麗子からはそう聞いていた。
 部屋で一、二時間過ごし、監視の目がなくなったところで改めて出かけることにする。
 マンションの前に着いたとき、突然振り返って辺りを見回したが、不審な人物の姿は確認できなかった。ホッとしながらも、プロなら相手にわかるような尾け方はしないだろう、と思い直す。用心するに越したことはない。
 部屋に入り、パソコンをつけると、三年前に別れた男からメールが届いていた。
 離れ離れになってからも、ごくたまに近況は報告し合っていた。男は、仕事は順調らしく、ベルギーでの生活もエンジョイしているようだった。江梨子のほうは、当たり障りのないことを書いた。ギロチンハウスに異動になったことは知らせていない。
 新着のメールに目を通した江梨子は、思わず頬をほころばせた。
 ベルギーでの任期が終わり、彼はこの秋、帰国する予定だという。
〈日本では関西勤務を希望してる。希望が通ったら、江梨子が仕事を辞める必要はなくなる。帰ったらもう一度よく話し合おう。〉
 彼がまだ、そんなふうに自分のことを考えてくれているのを知り、胸が熱くなった。久々のグッドニュースだ。
 かくなる上は、絶対にギロチンハウスから脱出しなければならない。そして、組織の腐った部分を取り除き、麗子たちと共に会社を再生させる。
 ──やってやろうじゃないの。
 決意を新たに、江梨子はメールの返事を書いた。
〈帰国が決まったのですね。おめでとう(と書いてもいいのかな)。
 あなたが、あんなふうに私のことを考えてくれているとは思ってなかった。とても嬉しいです。
 実は今、会社ではいろいろ大変なことがあるんだけど、それもあなたが帰国するまでには片が付いていると思う。スッキリした気分で再会したい。そして、これからのことをちゃんと話し合いたい。
 秋に会えるのを楽しみにしています。とにもかくにも身体に気をつけて。〉
 指を弾ませるようにして一気にキーをたたくと、江梨子はメールを送信した。闇の間から、一筋の光が差し込んできたような気分だった。
 パソコンを閉じると、江梨子はシャワーを浴びた。軽く化粧しながら、いつまでもにやけている場合ではない、と気を引き締める。
 ポロシャツに綿パンツという軽い服装に着替えて、部屋を出た。玄関から裏道に回り、住宅の間を抜けて大通りに出る。手を上げてタクシーを拾うと、尾けてくる車がないことを確認してから、行く先を運転手に告げた。
 ──なんだか、秘密諜報部員にでもなったようだ。
 前方に向き直ると、江梨子は苦笑した。

 十五分ほどで、指定された京都市内にあるホテルの前に着いた。
 スマホで麗子に電話をかけ、部屋番号を教えてもらう。
 ロビーに入り、カウンターの前を通り過ぎて、エレベーターホールに向かう。
 エレベーターに乗り込む前に、素早くロビーを見渡した。こっちを気にしている者はいない。尾行はなさそうだ。
 七階まで上り、静まり返った廊下を奥に進む。指定された部屋のチャイムボタンを押すと、ほどなくドアが開いた。麗子が、いつもの柔和な笑顔で迎えてくれる。
 部屋は、リビングと寝室が別になったスウィートで、大きな窓からは京都市内の夜景が見渡せる。
 窓際に置かれたソファで、着物姿の中年女性が立ち上がった。口許に笑みを浮かべながら、ゆったりとお辞儀する。
 ひと目で、素人ではないとわかった。明らかに水商売の女性だ。しかも、その洗練された立ち居振る舞いから、祇園あたりの高級クラブのママではないかと、江梨子は推察した。
「こちらは、榊江梨子さん」
 麗子が、女性に顔を向ける。
「あなたのことは、なんて紹介したらいいのかしらね」
「先々代の社長の、元のお妾さん」
 笑みを浮かべたまま、女性は言った。
 ──お妾さん……。
 江梨子は目を見開いた。
 ──先々代ということは、今の社長の父親だ。
鈴代すずよ、申します。よろしゅうお願いします」
 優雅な手つきで、女性は名刺を一枚差し出した。予想通り、祇園のクラブの名前が記されている。
 江梨子は、改めて鈴代を見た。見かけだけなら四十代前半で通る。でも、おそらく五十歳は超えているだろう。社長の父親は、もう八十歳近いはずだから、五十代にしても、ずいぶん歳の離れた愛人だったということになる。
「鈴代さんは、言うなれば、社外協力者ってところかな。社内協力者は、少し遅れるって連絡があったわ」
 今日は、その社内協力者を紹介してもらうことになっていたのだ。まさか社外にも協力者がいるとは思わなかった。
 揃ってソファに腰を下ろすと、麗子は鈴代に向かって、自己紹介がてら身の上話をするよう、うながした。
「そないに面白い話やおまへんけどな」
 そう前置きすると、相変わらず笑みを浮かべたまま、鈴代は話し始めた。
 それは、江梨子にとって実に興味深い話だった。
 鈴代が先々代の社長と愛人関係になったのは、三十年も前のことだという。そのとき鈴代は、まだ二十歳そこそこで、祇園のクラブに出るようになったばかりだった。胡桃沢は、そのときはまだ専務だった。
 一年近く付き合い、妊娠がわかったとき、胡桃沢はすぐに堕ろすよう命じた。しかし、鈴代は拒否した。母親がキリスト教徒だった影響で鈴代も子どもの頃洗礼を受けており、今でもたまに教会に行くことがあるという。せっかく授かった命をなきものにすることなど、考えられなかった。
「彼は養子やったんです。うちが妊娠したことが奥さんにもバレてしもうたらしくて……、そら、奥さんは怒らはりますわな。後々、遺産のこととか、ややこしい問題も出てきますよって。弁護士さんやらもうちのとこに来て、とにかく子どもだけは堕ろしてくれて、なんべんもしつこう頼まれましたわ。けど、うちは断わりました。お金もいらんし認知も必要ないからいうて、ひとりで子どもを産んだんです。それからは、乳飲み子抱えながらホステスに復帰して、がむしゃらに働きました」
 鈴代はにっこり微笑んだ。実に艶っぽい笑みだった。
 それから何年も経たないうちに、鈴代は店のナンバーワンになったという。その後、資産家のパトロンがつき、祇園に自分の店を出せることになった。彼の指南で株取引にも手を出して大金も手にした。
「今は、お店に来はる方たちのコネクション使おて、京都クルミ製作所の株、買い集めさせてもろうてます」
「うちの会社の株を──?」
「へえ」
 鈴代は、江梨子に向かってうなずいた。
「うちの夢はね、京都クルミ製作所の大株主になって、経営に口挟むことなんです。復讐──、いうほど大げさなもんでもないけど、まあ、捨てられた女の意地みたいなもんです。
 立浪さんのことは、以前から存じ上げてたんです。京都クルミ製作所のことは、いろいろと調べさせてもろてたんで、胡桃沢一族と意見を異にしている気骨のある人物いうことで、一目置いてましたのや。それで、もう七、八年も前のことになりますけど、うちのほうから声かけさせてもろて──」
「社外協力者になってもらってるってわけよ」
 麗子が最後を引き取った。
「へえ……」
 それは、実に頼もしい社外協力者だ。
「ああ、そういえば──」
 今思い出した、というように、麗子が江梨子を見た。
「例のモノ、持ってきた?」
「はい」
 手にしていたバッグを開けると、江梨子は中から、小さなビニール袋に入れたUSBメモリと、A4のクリアファイルに挟んだヘッドハンターの似顔絵を取り出した。それをテーブルの上に置く。
 USBメモリは、役員会議の前にすり替えられたもの。似顔絵は、下島の話を聞きながらより丁寧に勝見が描いたもの。それを持ってくるよう、麗子から言われていたのだ。
「本当に調べられるんですか?」
 江梨子はたずねた。
「会議の直前にすり替えられたのなら、あなたのもの以外でUSBに指紋が残ってたら、それは犯人のものってことになる。手袋してたら指紋は残らないけど、そこまで慎重にやってるとは思えないからね。犯人が特定できる可能性は大きいと思うわよ。それに、これ」
 似顔絵を手に取り、江梨子のほうに向ける。
「似てるんでしょ?」
「ええ。下島さんは、とてもよく似てると言ってました」
「だったら、探し出せるんじゃないかな。日本全国から探そうって話じゃないからね。三部長の周辺だけあたればいいわけだから」
「それは……、そういう調査専門の会社に依頼をするってことですか?」
「うちに任せといて」
 鈴代が口を挟む。
「うちの店にはね、いろんな方がお見えになるの。その手の調査をやってくれはる会社の方も、よう知ってますんや。うちから頼んどきますよって」
「へえ……」
 さすが高級クラブのママともなると、交友関係が広い。
「坂口好美さんの浮気相手については? 何か情報はある?」
 麗子が訊いた。
「そっちのほうは、勝見君が調べてくれてます」
 勝見は、何かアテがあるようだった。
「何かわかったら、すぐに知らせてくれることになってます」
「そう」
 満足げに微笑むと、麗子は立ち上がった。
「社内協力者が来るまで、一杯やらない?」
 江梨子の返事を待つことなく、さっさと背を向けて歩き出す。
 壁際のデスクの上には、バーボンのボトルが載り、グラスも用意してあった。麗子は酒豪なのだ。多分、今夜は、へべれけになるまで付き合わされるだろう。
 まあ、それはよしとして──。
「あの……」
 麗子の背中に向かって声をかける。
「社内協力者っていうのは、いったい誰──」
 そこまで言いかけたとき、チャイムが鳴った。
「来たようね」
 麗子がドアを振り返る。
「開けてあげて」
「はい」
 緊張しながら、麗子は腰を上げた。
 リビングを出て、ドアの前に立つ。
 一度深呼吸してから、ノブに手をかけた。ゆっくりドアを開ける。
 目の前に立つ人物をひと目見た途端、江梨子は思わず、「えっ」と小さく声を上げた。


<次回は9月22日(金)更新予定です>