ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

W 決着のとき来たる

 麻里は全てを理解した。
 ──私を襲ったのは柴田だ。
 凶器は、おそらく、息子が使っていた金属バットだ。柴田は、未有起に私の行動を探らせていたのだ。
 それだけではない。
 この前ここに来て遺影の前で手を合わせていたとき、柴田は音もなく背後に立った。あのとき、きっと柴田は私を殺そうとしていたのだ。ところが、偶然隣の事務所に電話がかかってきて、女性事務員が呼びに来た。だから、殺すのをあきらめた。
 私の携帯に送ってきた未有起の写真は別人で、特徴も全て嘘だ。最初から、柴田は、ここに私をおびき出して殺すつもりだったのだ。
 横で正座している未有起に顔を向ける。
 目の周りの痣が痛々しい。息子を死なせてしまってから、未有起はずっと、柴田から暴力を受け続けてきたのかもしれない。二年前、会社を訪ねてきたとき、未有起は大きなサングラスをかけていた。あれは多分、目の周りの痣を隠すためだったのだろう。
「誰にも俺たちのことを話してないと聞いて、安心したよ。逮捕される心配なしに、存分にお仕置きできる」
 背後で、柴田が言った。ぞっとするほど暗い声だった。
「死体はバラバラにして海にまいてやる。魚が喜ぶだろうな」
 麻里は、必死で首を後ろに捻った。
 ──やめて!
 叫ぼうとしたが、声が出ない。
「簡単には殺さない。ゆっくりいたぶってやる。和也が味わった苦しみの何倍も、俺が味あわせてやる」
 麻里は、喉の奥で悲鳴を上げた。
 柴田が一歩近づく。
 顔を歪めて笑いながら、金属バットを振り上げる。
 全身が硬直した。思わず固く目を閉じる。
 そのときだった──。
 ガチャン、と派手な音を立てて窓ガラスが割れた。
 麻里が目を見開く。ぎょっとした表情で、柴田がリビングを振り返る。
 ガチャン──。また窓ガラスが割れ、拳大の石がリビングの床を転がった。
 ドンドンドン──。玄関ドアが激しく叩かれる。
 何が起こったのかわからず、柴田はその場に呆然と立ち尽くしている。
 ──ドアを開けて。
 麻里は、目で未有起に訴えた。
 未有起は、怯えた目で見返してきたが、またガラスが割れる音が響くと、突然我に返ったかのように立ち上がった。窓のほうを向いている柴田の背後をすり抜け、リビングから飛び出して行く。玄関のドアの鍵を開けようというのだろう。
 気づいた柴田が慌ててあとを追う。
 二人の姿が視界から消えた。足音だけが響く。
 柴田の怒声、未有起の悲鳴、ガタンバタンという衝撃音、そして、玄関のドアが勢いよく開く音──。
「やめなさい!」
 女性の声。江梨子だ。
「誰だ、貴様!」
「や、やめろ! お前は包囲されている!」
 今度は下島だ。言っていることはピンボケだが、それはこのさいどうでもいい。
 獣のような声で柴田が叫んだ。下島が悲鳴を上げる。柴田がバットを振り回しているらしい。
 サイレンの音が聞こえてきた。江梨子たちが通報してくれたのだろう。
 助かった、と思った瞬間、足音が響いた。こっちに近づいてくる。
 バットを手に、柴田がリビングに引き返してきた。
「お前、だましやがったな!」
 目が血走っている。焦点も合っていない。完全にイッてしまっている。
 上半身を起こし、必死で後ろに下がる。
 仏壇に背中が当たり、遺影が床に落ちた。
 ガラスが砕ける。それを見て、柴田がさらに逆上する。
「うおお!」
 唸り声を上げながら、柴田がバットを頭上に振り上げる。
 その足に、未有起がむしゃぶりついた。バランスを崩して柴田が横向きに倒れる。
「麻里さん!」
 割れたところから手を入れてクレセント錠を外したのだろう、窓から勝見が飛び込んできた。バットを手に立ち上がった柴田を見ると、よせ、やめろ、と言いながら後ずさる。
 続いて下島がリビングに入ってきた。
「お、お前は包囲されている!」
 思い切り声が震えている。しかし、ここに来てくれただけでありがたい。
「やめなさい」
 さすが江梨子、一番落ち着いている。下島を押しのけるようにして前に出ると、柴田の正面に立ち塞がった。
「もう終わりよ。あきらめなさい」
 サイレンの音が、家のすぐ前で響いている。
 一瞬、呆けたような表情になると、柴田は、力なくその場にしゃがみこんだ。


 警察で柴田は、全てを自供した。
 柴田は、未有起と離婚してはいなかった。最初に麻里が柴田を訪ねたとき、咄嗟に嘘をついたのだという。麻里を未有起と接触させないためだ。
 柴田は、ひとり息子の和也を溺愛していた。
 和也が死んだとき、柴田は、激しく未有起を責めた。そして、和也の身に何が起きたのか調べるよう命じた。暴力はそのときから始まった。和也の死に負い目を持つ未有起は、柴田の暴力から逃げることも、命令に逆らうこともできなかった。
 未有起は、自転車の衝突事故が和也の死の原因であることを突き止めた。しかし、麻里はそれを認めず、法的な手段に訴えることもできない。柴田は復讐を決意した。
 京都クルミ製作所に麻里が勤務していることを知ると、柴田は京都にアパートを借り、そこに未有起を住まわせた。麻里の自宅を突き止め、襲撃するタイミングと場所を絞り込もうとしたのだ。柴田は最初から、自分で麻里を襲うつもりだったという。
 しかし、未有起は、麻里の姿さえ見つけることができなかった。そんなとき、会社でパートを募集していることを知り、柴田は、求人に応募するよう未有起に命じる。
 前の会社で面会したときは大きなサングラスをかけていたから顔はわからないだろうが、柴田は彼女のことを「妻の未有起です」と麻里に紹介した覚えがあった。本名で応募したら麻里に気づかれる恐れがある。そこで柴田は、未有起に、二つ違いの姉の厚子に成りすますよう指示した。未有起は、厚子として筆記試験と面接を受け、まんまと京都クルミ製作所に採用される。
 名古屋の実家から、マイナンバーカードや年金手帳など、厚子に関する証明書類を全て持ち出すと、未有起は、それを使って、住民票など会社に提出する書類を取得した。二つ違いの厚子とは顔立ちがよく似ていたから、マイナンバーカードに貼られたような小さな顔写真と比べられるだけなら、充分ごまかしがきく。誰も未有起を別人だとは思わなかった。
 証明書類の不正使用があとで厚子にバレたときのことなど、未有起は、何も考えていなかったという。彼女は、ただ柴田の命令に従うしかなかった。柴田のほうは、一刻も早く息子の復讐を遂げることしか頭になかった。あとのことはなんとでもなると思っていた。
 会社の内部に入り込んだ未有起は、麻里を尾行し、帰宅のルートを柴田に報告した。
 柴田は、六月から七月にかけて、合わせて五回、公園で待ち伏せしていたという。麻里が公園を通り抜けないときもあり、他に通行人がいたときもあった。
 そしてあの雨の夜──。柴田は襲撃を決行した。
 麻里にとって幸運だったのは、最初の一撃の直後、公園前の道をたまたま人が通りかかったことだった。姿を目撃される前に逃げるしかなく、柴田は、攻撃を続けることができなかった。

 麻里は、和也との自転車衝突事故のことを含め、この日に至るまでのいきさつを正直に警察で話した。
 江梨子たち三人のことは、自分が一番信頼している同僚で、万が一のときのために外で待機していてくれるよう頼んだのだと説明した。
 未有起の姉が会社に入り込んでいたこと。そして、その姉が金曜日のうちに退職していることが気になっていた。
 リスクヘッジは、ビジネスの基本だ。麻里は、カードキーを渡す条件として、自分の護衛を江梨子たちに頼んだ。自分を襲った犯人と会うことも、襲われた理由についても、正直に話した。もちろん、それらのことは全て秘密にするという約束も交わしていた。麻里は、金曜日のうちに電器店で小型の無線機を購入し、バッグにそれを忍ばせた。
 麻里がまだ新幹線に乗っているとき、江梨子たちはすでに、車で柴田の家の近くに到着していた。連絡はメールで行なった。
 路上に停めた車の中で、江梨子たちは、麻里の無線からの音を聴いていた。警察の到着が間に合わないと判断した三人は、柴田の犯行を止めるために動いてくれた。
 セカンドキャリア戦略室が、いわゆるリストラ部屋で、そこに三人を送り込んだ張本人が麻里だと知れば、警察はこの四人の関係を不審に思ったかもしれない。しかし、地元の警察は、身分証で全員が京都クルミ製作所の社員であることを確認しただけで、犯罪を未然に防いだ功労者である江梨子たちについて深く詮索することはなかった。

 京都府警からも刑事がやって来て、事情聴取は深夜にまで及んだ。解放されたのは、午後十一時を過ぎていた。
 翌日の日曜日にも引き続き事情を訊きたいというので、麻里と江梨子たち三人組は、警察が手配してくれたホテルで一泊することになった。


「今日は、ありがとうございました。こんなことに巻き込んでしまって、本当に申し訳ありません」
 ホテル近くのバー。四人掛けのテーブル席につき、飲み物をオーダーすると、麻里はまず深々と頭を下げた。
「でも、よかったですよ。怪我がなくて」
 麻里の横で、勝見は笑顔を向けた。
「ほんまや。ちょっとビビったけどな」
 斜め前の席で、下島も笑う。
「ああいうこともあるって、予想はしてたの?」
 対面の江梨子は、あくまで冷静だ。
「いえ」
 麻里は首を振った。
「まさか、あんなことになるとは、さすがに予想してませんでした。この前会ったとき、柴田は、穏やかで誠実な人間に見えたし……」
 柴田が真犯人だとは、露ほども思っていなかった。完全にだまされていたのだ。
「ただ、田辺厚子の存在が不気味で……、嫌な予感はしてたんです」
「だから僕たちにバックアップを頼んだんですもんね。予感が当たったってことで──」
「でも──」
 勝見の言葉を、強い口調で江梨子が遮る。
「やっぱり、最初から全部警察に話すべきだったのよ」
「それは、確かにそうですけど」
 むっとした表情で、麻里が江梨子に目を向ける。
「榊さんだったら、本当にそうしましたか? これからいよいよ、自分が中心になって大きなプロジェクトが動き出すってときに」
「そうね……」
 江梨子は腕を組み、わずかに首を傾げた。
「あなたの気持ちは、わからないことはないわ。私もずいぶん突っ張って仕事してきたからね。女性が大きなプロジェクトを任されることってなかなかないし、あなたのキャリアにとって大きなチャンスだってこともわかる。でも、今回のことは、やっぱり無謀だった。最初に聞いたとき止めるべきだったって、反省してる。それに──」
 目を細めて麻里を見つめる。
「今回のプロジェクトは、社長の不正を隠ぺいするのが目的なのよ。この前話したけど、あなたは単なるお飾りなの」
「私は……、あなたが言ったことを全部信じたわけじゃないんです」
 初めて面会したとき、これからの会社のあるべき姿を熱く語っていた胡桃沢社長の姿が忘れられない。あれが全部嘘だったと思いたくはない。
 もっとも、こうなった以上、自分はもう会社を去るしかない。また一からやり直しだ。
 ──でも、こんな私を雇ってくれる会社があるだろうか。
 難しいだろうな、と思った。日本での再就職は無理かもしれない。
 鉛のようなため息をついたとき、麻里は不意に、江梨子たちとの約束を思い出した。
「あの……」
 バッグを開け、パスケースを取り出す。中にはカードキーが入っている。
「これ、どうしましょう」
「ああ、それね」
 江梨子は苦笑した。
「こんなことがあったから、明日監査室に入るってわけにはいきませんよね」
 麻里が、またため息をつく。
 今日の事件については、すでに丸子に連絡している。監査部の社員の何人かは、明日の日曜日に出勤することになるはずだ。ハードディスクのコピーは難しいだろう。
「すいません、約束を破るような形になってしまって」
 麻里は頭を下げた。
「いいのよ。気にすることはない」
 言いながら、江梨子が唇の端に笑みを浮かべる。
「あなたは、もう充分役に立ってくれてるんだから」
「は──? どういう意味ですか?」
「今にわかるわ」
 ──もう充分役に立っている?
 意味が全くわからない。
 重ねてたずねようと口を開きかけたとき、飲み物が運ばれてきた。
「まあ、ややこしい話はここまでにして乾杯しましょうよ。事件の解決に」
 朗らかな口調で、勝見が自分のグラスを取り上げる。
「そうしましょう」
 下島が続く。
「そうね」
 江梨子も自分のグラスを持ち上げる。
 どこか腑に落ちない気分のまま、麻里は三人とグラスを合わせた。


<次回は10月27日(金)更新予定です>