ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

T 女キャリアは狙われる

 かいつまんで事情を説明したが、結局、下島はそのまま警察署に連れて行かれた。
 刑事は、改めて詳しく事情を聴くことになるかもしれない、と江梨子に告げた。そして丸子に、ハウスとは別の、どこか静かな場所で江梨子を待機させておくよう頼んだ。警察の聴取の前に、ハウスの住人にぺらぺら話されては困ると思ったのだろう。
 二人の刑事と下島が出て行くと、丸子は、自分についてくるよう命じた。窓にへばりついている社員たちの好奇の視線にさらされながら、ギロチンハウスを出る。社屋に入り、二階の小さな応接室へと連れて行かれる。
 ひとりきりで、江梨子は二時間以上待たされた。何もすることがないのはハウスと同じだから、どうってことはない。加齢臭がない分、まだマシだ。
 突然、ノックもなくドアが開いたかと思うと、まず丸子が入ってきた。後ろに続いたのは、下島を連れて行った二人とは別の、中年と若い刑事の組み合わせだ。
 身分証を見せて名乗ると、年長の刑事が江梨子の正面に、若いほうが斜め前のソファに座った。最後に丸子が、江梨子の横に腰を下ろす。
「下島さんの証言がとれました」
 年長の刑事が、江梨子に向かってわずかに身を乗り出した。
「昨日の夕方、榊さんといっしょだったと話しています。そのときのことを詳しく聴かせていただけますか?」
「はい。もちろん」
 深くうなずき、真っ直ぐ刑事に目を向ける。
「昨日は、五時少し前に──」
 江梨子は話し始めた。

 五時少し前、ギロチンハウスを出て社屋にあるトイレに行くと、経営企画部でかつて部下だった女性社員と偶然出くわした。これから接待で出かけるところだという。江梨子の姿を見て、彼女は明らかに動揺した。
 USBメモリすり替え事件のあとすぐに、江梨子は彼女を呼び出していた。実行犯が誰なのかを問い詰め、部内の陰謀について知っていることを全部話すよう迫った。経営企画部第二課で、彼女は江梨子を除いた唯一の女性社員で、それなりに目もかけていた。彼女だけは自分の味方になってくれるはずだと思い込んでいた。しかし彼女は、何を訊いても知らぬ存ぜぬで通した。すでに、ゲス男社員の側に取り込まれてしまっていたのだ。
 三十二歳で独身の彼女は、優秀なだけでなく、オヤジたちへの媚の売り方にも長けていた。男に負けじと突っ張っている江梨子とは正反対のタイプだ。もしかしたら、江梨子の存在をずっと煙たがっていたのかもしれない。
 トイレの鏡の前に並んで化粧を直しながら、江梨子は、今の部内の雰囲気や、現在進行中の企画など、当たり障りのない質問をした。彼女も当たり障りのない答えを返した。別れるとき彼女は、じゃあまた、と言って口許に薄笑いを浮かべた。後ろから蹴り飛ばしてやりたい衝動を、やっとのことで江梨子は抑えた。
 足取り重く、ギロチンハウスに戻る。
 そこには、下島がぽつんとひとりで残っていた。他の住人は、いつも五時きっかりに出て行く。すでに十分近く過ぎていた。五時十五分になったら、明かりもエアコンも消されてしまう。
 あのオッサン何やってんだろう、と思いながら黙って自分の席まで戻り、バッグを手にする。
 ──おかしいと思いませんか?
 いきなり、下島は言った。
 それまでは挨拶ぐらいしか交わしたことがなかったので、江梨子は驚いた。何がですか、と問い返すと、自分たちがここにいることです、と言葉を返す。
 下島のことはよく知らなかったが、その冴えない風貌だけで判断すれば、ここに一番ふさわしい人物に見える。
 江梨子が黙っていると、
 ──私、偽のヘッドハンティングにハメられたんです。
 そう続けた。
 ──あなたも同じでしょう? 誰かにハメられたんですよね。社内では有名な話です。勝見君も同じですよ。この前ちょっと話したんですけど……。
 勝見亮は、部下が辞職した直後に突然横領が発覚し、その責任を取らされたのだという。
 ──私たち三人はハメられたんです。
 最初は、おいおい私といっしょにすんなよ、と思った。でも、少しだけ引っかかった。下島が言っていることが本当なら、このテーブルにいる三人は、同じタイミングで、降ってわいたような事件が元でここに追いやられたことになる。
 下島は、他の住人がいなくなっても江梨子が帰ってこないので、二人きりで話ができるチャンスだと思って待っていたのだという。
 とにかく出ましょう、と江梨子は言った。エアコンが止まった暗い場所で、太ったハゲのオヤジと二人きりになるのは是が非でも避けたい。
 会社を出ると、下島に誘われるまま駅の反対方向に歩いた。どこか馴染みの店にでも入るのかと思ったら、住宅地の中にある、家の壁と小さな神社に周りを囲まれた児童公園に連れて行かれた。
 公園といっても、敷地の中には、L字型に固定された四人掛けのベンチと、象の形をした小さな滑り台が申し訳程度に置いてあるだけで、わずか五、六メートル四方ほどの広さしかない。こんなところで遊ぶ子どもなど、いそうもない。実際、そこには誰もいなかった。
 ──こんな場所で申し訳ないんですけど……、どこか店に入って、いっしょのところを会社の人間に見られたりしたら面倒やから。
 そう言い訳して江梨子をベンチに残すと、下島は小走りに公園を出ていった。近くのコンビニで缶ビールと酎ハイを数本、それに乾き物のつまみをいくつか買って戻ってくる。
 訊くと、ここにはほとんど毎日、ひとりで来ているのだという。
 営業マンだったとき、帰宅時間は遅かったはずだ。ギロチンハウスに入れられたことを家族に知られないために、毎日時間を潰してから帰っているということだろう。
 二人は、缶ビールで形だけ乾杯した。

 江梨子の話を、丸子は、苦虫を噛み潰したような顔で聞いていた。途中から貧乏ゆすりまで始めた。
「ただ、それからは、ほとんど下島さんの愚痴みたいなものでした」
 横目で丸子の様子をうかがいながら、刑事に向かって江梨子は続けた。
「自分たちは絶対にハメられたんだと繰り返すばかりで……、最後は私に、なんとかしてくれって何度も頭を下げて……。同期の社員に話してもうるさがられるだけで、西村さんに会いに行ってもまるで取り合ってもらえなかったみたいで……、あなたは社内でも有名な優秀な社員なんだから、何か考えがあるんじゃないか、もう頼れるのはあなたしかいないんだって……。そんなこと言われても困るんですけどね」
「なるほど」
 刑事は、髭の剃り残しが目立つ顎を撫でた。
「下島さんは、被害者に──、つまり西村さんに会いに行ったことを、あなたに話してたんですね」
「ええ」
「修学院駅の前で待ち伏せしてたことも?」
「待ち伏せ──?」
 江梨子が眉をひそめる。
「いえ。西村さんに会いに行ったけどまるで取り合ってもらえなかったと……、私が聞いたのはそれだけです」
「下島さん本人が、待ち伏せしたことを認めています。先週から今週にかけて、合計三度、駅前で西村さんの帰りを待っていたようです。そのことは西村さんにも確認済みです」
「西村さん、意識が戻ったんですか?」
「ええ」
 刑事はまた顎に手をやった。
 一本長い剃り残しが目についた。腕を伸ばして引っこ抜きたい衝動に襲われる。膝の上に置いた手を握りしめてそれに耐える。
「幸いなことに、襲われた直後に、偶然犯行現場近くを通りかかった人がいて、すぐに救急車を呼んだようでして……、当初思われていたより、傷は軽そうです。意識も、すでにはっきりしています」
「西村さんが、犯人は下島さんだと言ったんですか?」
「いえ」
 小さく首を振る。
「犯人の顔は見てないそうです。ただ、三度めに待ち伏せされたときに脅すようなことを言って追い払ったので、逆恨みされて襲われたのではないかと、西村さんはおっしゃっていました」
 ──なるほど……。
 今朝、下島が怯えたような様子だったのは、そんないきさつがあったからか。自分のところに警察がやってこないだろうかと気が気ではなかったのだろう。
「で、昨日の夕方、下島さんとは何時頃別れたんですか?」
 刑事が質問を変えた。
「多分、七時前だったと思います」
「七時前、ですか……」
 またもや顎を撫でる。癖なのだろう。
「その時間なら、あなたと別れてから現場に向かっても、犯行は可能ですね」
「それは、まあ、そうですけど……」
 確かに、それはその通りだ。会社がある伏見から、京阪─叡電と電車を乗り継いで行っても、修学院駅まで一時間もかからない。犯行時刻は九時過ぎなのだから、余裕で間に合う。でも──。
「これから人を襲いに行くって人間が、その前に同僚誘って公園でお酒なんて飲みますか?」
「そのときはまだ、襲うつもりはなかったのかもしれません」
「でもね……、私、別れる前に下島さんに言ったんです。私は絶対にこのまま会社を辞めたりしない。だから、納得できないんなら下島さんも戦うべきだって。力になれるかどうかはわからないけど、いっしょに頑張りましょうよって。下島さん、涙ぐみながらうなずいてました」
「なるほど……」
 刑事の指先が剃り残しの長い一本を探り当てた。親指と人さし指で摘まんで引き抜こうとする。しかし、失敗した。途中まで引っ張ったことで、さらに長さが増したように見える。
 ──抜きたい。
 拳を握りしめて耐える。
「では、うかがいますが──、事件に関して何か気になっていることとかありませんか? 怪しい人物に心当たりがあるとか」
 江梨子の視線に気づいたのか、刑事は顎から手を離した。
「怪しい人物?」
 問い返しながら、江梨子も顎から視線を逸らす。
「西村さんは、たくさんの人から恨みを買っていたようですから」
「それは、リストラ組の中に犯人がいるんじゃないかってことですか? もしかして、ギロチンハウス──」
 隣の丸子が、コホン、とひとつ咳払いをした。
「じゃなくて、追い出し部屋──」
 またも咳払い。
「でもなくて、セカンドキャリア戦略室」
 横を向き、わざとらしく微笑みかける。丸子の頬がひきつっている。
「その社員の中に犯人がいると?」
「まあ、可能性としては、ですけどね。自主退職した人を含めて」
 ──つまり、私も容疑者のひとりということか。
「どうでしょう。何か心当たりは?」
 刑事が、探るような目を向けてくる。
 ギロチンハウスの中でまともに言葉を交わしたことがあるのは、同じテーブルの下島と勝見だけだ。ハウスでは、誰もが無口で、無気力で、他人のことなど気にかける住人はいない。
 どう答えようか迷っていたとき、着信音が鳴った。
「失礼します」
 若いほうの刑事が、スーツのポケットからスマホを取り出しながら立ち上がる。
 そのまま応接室の隅に歩き、壁に顔を向けたまましばらくの間相手の話に耳を傾けていたが、苦い表情で踵を返すと、年長の刑事の耳に口を近づけた。「自宅近く、コンビニ、カメラ、雑誌、確認」という言葉が聞き取れた。
 年長の刑事が、大きくひとつ肩で息をつく。
「下島さんは、どうやら事件とは無関係なようです。犯行時間に、別の場所にいたことがわかりました」
 ポーカーフェイスで、そう告げる。
 頭の中で、今聞いた言葉がパズルのように組み合わさった。大方、事件が起きたのと同時刻に、自宅近くのコンビニの防犯カメラに下島の姿が映っていたのだろう。家に帰りづらくて、長い間ぐずぐずと雑誌を立ち読みしていたのかもしれない。全く、何が幸いするかわからない。
 刑事は、もう一度、さっきと同じ質問を繰り返した。
「今のところ何も思い当たりません」
 今度は、そう答えた。
 ギロチンハウスの無気力集団の中に犯人がいるとは思えなかった。ただ、退職した元社員の中には、新しい仕事が見つからずに生活が困窮し、挙句に家庭が壊れたりして、自暴自棄になっている者がいるかもしれない。精神を病んだ元社員が、リストラ担当者を襲う可能性は捨てきれない。刑事は、明らかにその線を疑っている。
 いや、しかし──、と江梨子は思い直した。
 西村麻理の主導でリストラが始まったのは、わずか数ヶ月前からなのだ。会社を去った社員には退職金が上乗せして渡されているし、当然失業保険も出るだろうから、すぐに生活が困窮することはない。第一、今は再就職先を探すことで必死のはずだ。麻里に構っている暇などないはずなのだ。
 リストラを言い渡された瞬間にキレて襲いかかるとか、数日後に町で偶然見かけて自分を抑え切れなかったとか、そういうことならまだわかる。でも、今回の場合、犯人は明らかに待ち伏せしているし、凶器も予め準備している。計画的犯行だ。
 ──うちの会社のリストラ社員の中に犯人がいるという推理には、やはり無理があるのではないか。
 刑事が会議室を出て行ったあとも、モヤモヤした気分が残った。どうにも落ち着かない。まるで、刑事の顎に残っていた剃り残しの髭のようだ。引っこ抜かない限りスッキリした気分にはなれない。
「おい、何ボンヤリしてる」
 丸子の声で、江梨子は我に返った。


<次回は6月30日(金)更新予定です>