ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

エピローグ

西村麻里

 水が入った桶と柄杓、それに花束を手に、麻里は緩やかな坂道を上り始めた。
 丘の中腹には霊園が広がっている。一度来たことがあるので、今日は迷うことはない。
 蝉の声に包まれながら、墓の間の道を進む。ほどなく、柴田和也の墓の前に着いた。
 明日には日本を出て、アメリカに渡る。その前にもう一度だけ、ここに来ておきたかった。
 アメリカでは、大学に入り直し、一から勉強する。卒業後もアメリカに住み続けるか、日本に戻るか、それは改めて考えればいい。そう思っていた。
 墓を水で清め、花を供える。
 その間、公園で襲われてからのことが、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。怒涛のような毎日だった。あんなことが自分の身に起きるなんて、今でも信じられない。
 ──でも、全て私自身が蒔いた種だ。
 罪の重さを、麻里は自覚していた。自分のせいで、幸せだった一家が崩壊してしまったのだから。
 和也の墓の前にひざまずき、手を合わせる。
 目を閉じると、少年の笑顔が瞼の裏に浮かんだ。
 麻里は、心の底から和也の冥福を祈り、許しを乞うた。


勝見亮

 ドアが開く音に振り返ると、笑顔で手を振りながら、佐々木圭子が店に入ってきた。今日は、若草色のノースリーブのワンピースだ。逞しい二の腕が剥き出しになっている。嫌いではない。
 勝見は、いつものようにカウンターの一番端の席に座っていた。相変わらず客は他にいない。これで経営が成り立っているのが不思議だ。マスターは資産家の息子か、あるいは宝くじかロト7で大金を当て、道楽でこの店を開いたのではないかと勝見は踏んでいた。
 圭子が席に着き、勝見と同じものをオーダーする。今日は最近流行だという、南アフリカ産の赤だ。
「じゃ、乾杯しましょう」
 マスターが目の前に置いたグラスを、すぐに圭子は取り上げた。
「勝見クンの、総務部第五係、係長復帰を祝って」
 二つのグラスが合わさり、カチンと音を立てる。
 勝見には、今日は大事な話があった。圭子が酔っぱらう前に切り出さなければならない。
「圭子さん」
 椅子の上で身体を捻り、勝見は、圭子の正面に向き直った。
 メニューを差し出そうとしていたマスターが、気を利かせたのか、そっと一歩退く。
「なに?」
 圭子も勝見のほうを向く。
「これ」
 勝見は、小さな箱を圭子の前に置いた。
「え──?」
 声を上げたのはマスターだ。相変わらず空気になり切れていない。
 圭子の顔が見る間に上気した。震える指先で箱を取り上げ、蓋を開ける。中には指輪が入っている。
「僕と、結婚してください」
「ひゃっ!」
 またマスターだ。慣れているから、勝見も圭子も無視した。
「私、あなたよりひと回り以上年上よ」
 照れたように、圭子がうつむく。
「フランス大統領の奥さんは、二十歳以上年上だそうです」
 実は、それを知って勇気が出た。愛しているなら、歳の差なんて関係ない。
 圭子は無言だった。どう答えていいのかわからない、というように、箱の中の指輪にじっと目を落としている。
 シュポン──。
 そのとき、コルクが抜ける乾いた音が店内に響いた。
「私からのお祝いです」
 いまさら遅いと思うが、寡黙なチョイ悪オヤジ風を気取りながら、マスターがシャンパンをグラスに注いだ。
 圭子は、泣き笑いの表情になった。たるんだ喉の肉がぷるぷると震えている。
 いいな、と勝見は思った。
 ──僕は、やっぱりこの人が好きなんだ。
「いっしょに幸せになりましょう」
 肉厚の圭子の肩を、勝見はそっと抱き寄せた。


下島裕二

「お父さん、ビールのおかわりは? それとも日本酒にする?」
 空のグラスに目を向けながら、女房が訊いた。
「ああ、うん」
 横目でうかがう。女房はやさしげな笑みを浮かべている。
「ええと……、じゃあ、も、もう一回ビールを……」
 思わず言葉に詰まってしまう。家族にやさしくされることに、まだ慣れていないのだ。
「いいよ、私が取ってきてあげる」
 立ち上がったのは長女だ。テーブルを離れてそそくさと冷蔵庫の前に行き、缶ビールを手に戻ってくる。おまけにグラスにビールを注いでくれる。
 夕食のテーブルには、下島の好物ばかりが並んでいた。筑前煮、鶏のから揚げ、まぐろの刺身、だし巻き。好きな銘柄の日本酒のボトルも、テーブルに鎮座している。
「クラスのみんな、テレビ見たって」
 から揚げを頬張りながら、嬉しそうに次女が言った。
「私の友だちも」
 長女だ。
「近所の奥さんたちからも、すごいね、って言われたわよ」
 女房の声は弾んでいる。
「そうかあ」
 下島は胸を張った。いい気分だ。腹の底から笑いがこみ上げてくる。
 京都クルミ製作所で行なわれていた不正を告発した下島たちの活躍はマスコミの知るところとなり、まず雑誌で取り上げられた。そして、昨日の日曜日には、ワイドショーの中で三人へのインタビューが放送された。今や下島は、家族のヒーローなのだ。
「ああ、そうや」
 もうひとつ、いいことがある。
「今度、課長へ昇進することが決まった」
 女房と二人の娘が、同時に歓声を上げる。
 現金な奴らだと思う。今までの態度を反省しろ、とひとこと言ってやりたい気もする。
 ──けど、ま、いっか……。
 夫と父親としての威厳が戻ったのだ。大いにめでたい。
 長女が注いでくれたビールを、下島はひと息で飲み干した。


榊江梨子

 最初は自分が呼ばれたとは思わなかった。
「部長」
 経営企画部第二課時代に部下だった女性社員が、デスクの前に立っていた。江梨子がギロチンハウスに異動になったことを嘲笑っていた女だ。
「ぼんやりしないでくださいよ、部長」
 愛想笑いを浮かべながら最後の「部長」を強調すると、彼女はペーパーを数枚差し出した。
「企画書です。よろしくお願いします」
 ぺこりとお辞儀すると、全く悪びれた様子もなく、腰を振りながら自分のデスクに戻って行く。まったく、食えない女だ。
 江梨子は、数日前、部長になったばかりだった。突然の昇進で、呼び方を含めて、まだ全く慣れていない。

 一連の騒動が片付くと、社長は解任され、胡桃沢一族と血縁関係のない前社長がその座に返り咲いた。役員も半分が入れ替わり、立浪も復帰を果たした。
 胡桃沢と丸子、それに何人かの役員は捕らえられ、取り調べを受けている。今後の裁判で、これまでの会社の不正経理が明るみに出るはずだ。そうなったら、会社自体もダメージを受ける。経営を立て直すのは容易ではない。でも、逃げるわけにはいかない。
 鈴本は犯行を自供した。結婚してくれなければ、妊娠のことを含めて会社と奥さんに全てを話すと脅され、追い詰められてやったのだという。
 それまで二人は、関係がバレないよう、慎重過ぎるほど慎重に付き合っていたらしい。二人の間のやり取りも、二人の連絡のためだけに好美が契約した、専用の携帯電話を使っていた。その二台の携帯は、鈴本が粉々にして鴨川に捨てたという。
 家長博美は、すっぱりと会社を辞めた。リュック一つ背負って世界放浪の旅に出るつもりだという。昔からの夢だったんです、と言って、博美は爽やかに笑っていた。
 博美は、自分を殺しながら何年もの間復讐のときを待った。そして、とうとうその目的を果たした。自分も強い女だと周りからよく言われるが、本当に強い女とは博美のような女性をいうのだと江梨子は思う。彼女にとっては、これからが本当の人生の始まりなのかもしれない。
 吉田と大崎は退職、青柳は子会社に飛ばされた。
 そして、空席になった経営企画部の部長の座に、江梨子が就くことになった。

 今受け取ったばかりの企画書に目を落としながら、江梨子は、小さくため息をついた。
 ──本当にこれでよかったんだろうか。
 そんな思いが胸に湧く。
 自分には別の道もあった。
 つい数日前、江梨子は、ベルギーから帰国した元カレにプロポーズされていた。ただし、彼の関西勤務の希望は聞き入れられず、東京にある銀行の本店に戻ることになった。彼にとっては栄転だが、結婚したら自分が京都を離れなければならなくなる。東京支社で勤務することはできるかもしれないが、本社の部長という、女性ではめったにたどり着けない椅子を蹴らなければならなくなる。
 悩んだ末に、江梨子は、またも仕事を選んだ。
 でも、今でもときどき、最後のチャンスを逃したかもしれない、という後悔の念が頭をもたげる。その気持ちを完全に振り切るには、まだ少し時間がかかるかもしれない。
 ──ま、仕方がない。これが私だ。
 今度は肩で大きく息をつくと、江梨子は、椅子を一八〇度回転させた。立ち上がり、すぐそこにある窓に近づく。
 江梨子は、外に目を向けた。
 ギロチンハウスの解体が始まっていた。追い出し部屋は二度と作らない、と新社長は宣言している。
 わずかな期間しか住んではいなかったが、ハウスでは実に濃密な日々を過ごした。もしかしたら、今までの人生の中で、一番密度の濃い時間だったかもしれない。二度と戻りたくはないが、懐かしさもなくはない。
「さよなら、ギロチンハウス」
 江梨子はつぶやいた。
 その途端、ハウスの中に立ち込めていたオヤジたちの加齢臭が鼻を衝いた──、ような気がした。


ご愛読いただきありがとうございました。
加筆修正後、書籍化を予定しておりますので、乞うご期待!!