ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

プロローグ

榊 江梨子さかき えりこ

 会議室が凍りついた。
 デスクに置いたパソコンのマウスをクリックした瞬間だった。カーテンが引かれた会議室は薄暗かったが、コの字型のテーブルについていた二十名ほどの出席者が、前方のスクリーンに顔を向けたまま固まったのが見えた。全員の目が大きく見開かれていた。
 出席者のほうを向いて新型医療機器に関するデータの説明を続けていたため、榊江梨子は、最初何が起きたのかわからなかった。
 首を捻り、斜め後方のスクリーンを振り返る。
 ──ゲッ……!?
 今度は、自分が凍りついた。
 円グラフが映されているはずのスクリーンの上には、生ビールのジョッキを傍らに、テーブルの料理に箸を伸ばす江梨子の姿が映っていた。やや前屈みになっているため、Xネックのセーターの奥に、胸の谷間が垣間見える。江梨子は、そこそこ巨乳だ。
 手元のパソコンの画面に目を向ける。スクリーンと同じだ。おそらく、去年の忘年会のとき撮られたものだ。
 慌ててマウスをクリックする。画面が切り替わる。今度は、数字が入った円グラフがスクリーンに映し出された。
 前に向き直った江梨子は、思わず小さくのけ反った。出席者全員の視線が自分の胸に注がれていたのだ。
 今回の会議は社内の役員向けに行なわれているもので、出席者は全員が男性。しかも年配者が多い。
 ──エロじじいどもめ。
 心の中で悪態をつきながら、さりげなくスーツの前を重ね合わせる。出席者が、咳払いやため息をつきながら目を背ける。
 舌打ちしたいのを、かろうじて江梨子はこらえた。
 昨日USBメモリを確認したときには、あんな写真は入っていなかった。誰かがすり替えたのだ。江梨子を辱めるために。
 会議で使うデータ自体は、経営企画部に所属する者なら誰でも持っている。江梨子の写真を紛れ込ませたファイルを予め作っておくことは、部内の誰にでも可能だ。退社するときはデスクに鍵をかけるが、社内にいるときはかけていない。誰でも引出しを開けることができる。江梨子が席を外したときを狙い、そっとデスクに近づいて、USBメモリをすり替えたのだろう。一人や二人目撃者がいてもおかしくないが、江梨子は部内では嫌われ者だ。数人の共謀ということもあり得る。
 経営企画部で働いている三十二名の顔が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。
「失礼致しました」
 ポーカーフェイスで出席者に向かって頭を下げると、江梨子は何食わぬ顔で説明を続けた。

「いったい、どうなっとるんや」
 目の前に立つ江梨子に向かって眉をひそめると、吉田よしだ経営企画部長は、苦々しい口調で言った。
 会議室には、今は江梨子と吉田だけがいた。カーテンが開けられ、午後の日差しが明るく室内を照らし出している。ただでさえ脂ぎっている吉田の額が、怒りと日の光でさらにてらてらと光っている。
「誰かがUSBをすり替えたんです」
 憤然としながら、江梨子は言葉を返した。
「これは私のミスではありません。非難されるべきなのは──」
「いや、問題は君にある」
「は──?」
 江梨子はぽかんと口を開いた。
「どうして私に──」
「今日のことだけやない。何日か前には、大事なデータが一部消えるという事件も起きてる」
「ちょっと待ってください」
 確かに、江梨子がパソコンに保存していたデータの一部が消去されていた。ただ、それも江梨子のミスではない。誰かがやったのだ。
「経営企画部の中に、私を陥れようとしている卑劣な人間がいるんです。まずすべきは、犯人を特定して──」
「確かに犯人は許せん」
 吉田が目を細める。
「ただ、君にも問題があるんやないかと言っとるんや。問題は、君に人望がないことや。だからいろいろと事件が起きる」
「はあ──?」
 開いた口が塞がらないとはこのことだ。大事なデータを消し、会議を冒とくした犯人を庇うかのごとき言動は、一流企業の部長職にある者の態度とはとても思えない。
 京都クルミ製作所は、医療関係や航空機などに使われる精密機器を開発製造する会社だ。本社は京都で、東京、名古屋、福岡、仙台に支社がある。創業は明治、創業者は 胡桃沢 雅俊くるみざわ まさとし、現在、従業員はグループ企業を合わせれば一万人余り、連結売上高は三千億円を超える。
 江梨子は、元々東京支社に勤めていたが、その力量を認められて、三年前に本社に移籍した。そして一年前、主に医療機器を担当する、経営企画部第二課の課長に昇進した。社内で唯一の女性執行役員の肝いり人事で、四十二歳の女性としては異例ともいえる大抜擢だった。それゆえ、部内にいる年長の男性社員の不満は、当時から大きかった。
 わずか一ヶ月半ほど前──、女性執行役員が、社内の派閥争いに敗れて退社を余儀なくされると、部内での江梨子に対する嫌がらせが始まった。ペンやメモ帳が紛失したり、椅子のクッションにインクの染みがついていたり、デスクの下にゴミが撒かれていることもあった。
 しかし、今回のことは、そんな子どもじみたいじめとはレベルが違う。
「私に非があるとは思えません」
 きっぱりと江梨子は言った。
「君に非がないとしても──」
 吉田の眉間に険しい皺が寄る。
「このままでは、業務に支障が出かねない」
「私にどうしろと」
「異動したほうが、君のためにも会社のためにもええんやないか。そういうことや」
 江梨子から顔を背けると、吉田は立ち上がった。書類の束を手に、ドアに向かって歩き出す。
「ちょっと待ってください」
 慌てて追いかけたが、吉田はもう見向きもしなかった。勢いよくドアを開けると、江梨子の鼻先でバタンと大きな音を立てて閉める。
 ──嘘でしょ。
 あまりのことに、江梨子は呆然と立ち尽くした。
「異動、って……」
 いったいどこに、と考えた瞬間──、
 脳裏にプレハブ小屋の映像が瞬いた。会社の中庭の片隅にある、十五メートル四方ほどの平屋だ。六年近く前に、会社に隣接する倉庫が火事になったとき、部品の一時保管所として建てられたものだが、今の使い道は違う。
 ──ギロチンハウス。
 皆はそう呼ぶ。公式な名称は「セカンドキャリア戦略室」。しかし、その実態は、社員の首を切るための「追い出し部屋」ならぬ「追い出し小屋」だ。つまり「ギロチンハウス」。
 五年前に第一次の大幅なリストラが行なわれたとき、ギロチンハウスは開業した。しかし、その後も経営は立て直せず、二ヶ月ほど前から第二次のリストラが始まっている。
 あそこに押し込められた社員は、ときが経つにつれて、目は虚ろに、動きは緩慢になり、やがて生きる屍のようになっていく。
 ──私があそこに……?
 全身から血の気が引いた。
「冗談じゃない」
 歯を食いしばると、江梨子は拳を壁に叩きつけた。

下島 裕二しもじま ゆうじ

 まさか自分がヘッドハンティングされるとは思ってもいなかった。
 そんな誘いがきても、これまでなら一笑に付していたところだ。定年までつつがなく、京都クルミ製作所で勤め上げることしか考えていなかったのだから。しかし、会社では、現在、第二次リストラの嵐が吹き荒れている。
 下島裕二は、大学新卒で京都クルミ製作所に入社して三十年になる。この間、営業一筋でやってきた。成績は誇れるものではない。一貫して中の下あたりのランクにとどまっている。でも、それを気にかけたことはほとんどない。出世競争には最初から興味がないから、五十二歳で課長代理という今のポジションにも不満はない。
 同年代の優秀な人材は、ほとんどが部長に昇進している。もうすぐ役員になりそうな者もいる。出世競争に後れをとった同年代の社員は、五年前の第一次リストラの際、通常の一・五倍の退職金を受け取って会社を去った。
 会社としては、本当は、ぬるま湯に浸かりきっている自分のような中堅社員を辞めさせたかったのだろうと思う。ところがどっこい、そんな社員ほど会社にしがみつくしかない。中の上ランクの社員が会社に見切りをつけて新天地に飛び出し、下のランクの社員がギロチンハウス送りになった挙句に退社してくれたおかげで、下島はかろうじて第一次のリストラを乗り切った。
 しかし、二ヶ月前からまさかの第二次リストラが始まった。
 自分が微妙な立場にいることはわかっていた。先のリストラでベテランの営業部員が減ったため、下島は貴重な存在と言えなくもない。とはいえ、相変わらず営業成績はパッとせず、管理職に向いていないのは誰が見ても明らかだった。天秤は、今まさに、かろうじて平衡を保っている。さじ加減ひとつでリストラ方向に傾いてしまう。
 中学生と高校生の娘がいてまだ学費もかかるし、家のローンも残っている。今、職を失うわけにはいかない。
 そんな状況だから、ヘッドハンターを名乗る男から突然携帯に電話がかかってきたとき、ついつい話に聞き入ってしまった。
 大阪に本社がある新興の電子機器メーカーが、営業部長として迎えたいと言っているという。
 ──これまでの三十年間で下島さんが築いてきたコネクションがあれば、新しい環境でも絶対に成功します。給料は今以上の額を保証します。
 男は、熱っぽい口調でそう話した。
 下島にとって、大阪は生まれ故郷だ。当然愛着もある。結婚して京都市内に居を構えたのは、妻の実家と京都クルミ製作所の本社があるからだった。この歳になって単身赴任はごめんだが、大阪なら問題なく今の家から通うことができる。
 ──是非一度、直接お会いしましょう。
 男は畳みかけてきた。下島は承諾した。
 金曜日の夜、仕事が終わったあと喫茶店で落ち合い、大衆居酒屋に移動した。今日はお近づきのしるしに気楽に一杯、という男の言葉に乗せられ、生ビールから日本酒、焼酎と、勧められるままにどんどん呑んだ。話題は、仕事での成功談や失敗談、家族のこと、同僚のこと、上司のことなど、あれやこれやと飛んだが、具体的な転職の話はほとんどなかった。男とは、じゃあまた、と手を振って別れた。
 営業部長の 鈴本すずもとから呼び出しを受けたのは、月曜日の午後のことだった。

「この男を知ってるな」
 営業部の隅に、パーテーションで区切って作られた応接室──。ソファに向かい合って座ると、鈴本は、いきなり一枚の写真を目の前に差し出した。カフェのような店のテーブルで、くつろいだ様子の男の姿が写っている。
 下島は、思わず目を剥いた。ヘッドハンターだった。
「知ってるな」
 威嚇するように身を乗り出しながら、鈴本は繰り返した。柔道の有段者だというこの営業部長は、ガタイがいいだけでなく、目つきもやたらに鋭い。
「あ、いえ……」
 しどろもどろになりながら答える。
「知らないはずがないやろ。調べはついとるんや」
「えっ!」
 弾かれたように写真から顔を上げた。
「この男、最近、会社の周りをうろちょろしてるそうでな。うちの社員に手あたり次第声をかけて、転職をそそのかしてるそうや。ほとんどの、まともな、社員は無視してるようやが──」
 鈴本は「まともな」の部分に力を入れた。
「何人か、誘いに乗って接待を受けた社員がおるようや」
 心臓が跳ね上がった。
 なんで知られたのだろうと思った。ヘッドハンティングの動きがあることを察知した監査部が動いたのだろうか。まるで公安警察なみだ。
「お前、転職する気か?」
「いや、そんな……」
 目の下がひくひくと痙攣する。
「私はただ、話をしただけで……」
「けど、その気が全然なけりゃ、接待なんて受けないわな」
「ち、違います」
「お前の気持ちはわかった。もういい」
 写真をポケットにしまうと、鈴本は立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
 慌てて下島が止める。
 しかし、鈴本は立ち止まってくれない。ドアを開け、パーテーションで区切られただけの部屋から出て行く。下島がそのあとを追いかける。
「待ってください、部長」
 呼びかけるが、鈴本は振り返ってくれない。営業部に残っていた社員が、何事かと一斉に顔を向ける。
 二階にある営業部の窓を通して、中庭のプレハブ小屋が、下島の目の端に入った。
 ──社員の墓場、ギロチンハウス。
 背筋に激しい震えが走る。
 そこに出入りする自分の姿が、一瞬瞼の裏を過った。

勝見 亮かつみ りょう

 総務部長の 大崎おおさきに声をかけられたとき、嫌な予感がした。表情がやたらに険しかったからだ。元々仏頂面だが、いつもより眉間に皺が一本多かった。
 ついて来い、とだけ大崎は言った。パソコンのキーボードから手を離すと、勝見亮は、慌てて立ち上がった。
 目の前に並んだデスクで、やはりパソコンに向かっていた二人の女性の部下が、何事だ、というような目でこっちを見ている。一人は、一年前に配属された二十代で小太りの契約社員。もう一人は、一ヶ月前に突然辞職したベテラン女性社員の補充として雇われた、三十代半ばの生真面目で無口なパート。社員の補充がパートというところに、今の会社の苦しい状況が表われている。
 総務部五係は、社内で消費する備品の調達・管理や、会議室・応接室等の予約受付、保安・防災・清掃・修繕業務などを統括している。係長の勝見を含めて三人だけの超小所帯だ。
 大股でどんどん先を行く大崎の後ろに、勝見は影のように付き従った。エレベーターに乗り込み、五階で降り、廊下を奥に進む。
 嫌な予感がさらに増した。この先には、社員が「奥の院」と呼ぶ監査部がある。社内の悪事を暴き、社員のミスを追及し、関係者と関連部署に鉄槌を下す、泣く子も黙る社内憲兵隊だ。
 大崎は、監査部の本丸が置かれた廊下の突き当たりまでは進まず、その手前にある「第3談話室」というパネルが貼られたドアの前に立った。こんなところに来るのは、八年前に入社してから初めてのことだ。
 大崎はまず、トントン、と二度軽くドアをノックした。ドアに顔を近づけ、自分の部署と名前を告げる。
「どうぞ」
 部屋の中からくぐもった声が聞こえた。
 大崎がドアを開け、軽く一礼してから中に入る。
 一歩遅れて部屋に足を踏み入れた勝見は、思わず息を呑んだ。
 そこは、まるでテレビで見る警察の取り調べ室のようだった。六畳足らずの広さで、窓はなく、正面にスチール製のデスクが置かれている。
 デスクの向こうに座っているのは、監査部長の丸子まるこだ。薄い眉に、細く釣り上がった目、尖った鼻。わずかにヘの字に曲がった唇に、シャープな顎のライン。額は広く、髪はオールバックに固めている。
 ふくよかで穏やかそうな「丸子」という名前とは正反対の、陰険陰湿を絵に描いたような顔だ。これでお人好しなら、逆に笑ってしまう。
 丸子の左横には、紺色の地味なスーツを身に着け、黒縁眼鏡をかけた、三十歳前後に見える女性が立っている。丸子の部下だろう。顔に見覚えはあるが、話をしたことはない。
「どうぞ」
 丸子は、デスクの手前に置かれたパイプ椅子を指し示した。
 ドアの前で立ちすくんでいる勝見に向かって、大崎が、早く行け、というように目で合図する。
「し、失礼します」
 声が裏返った。ぞわぞわとした震えが背筋を這い上がってくる。
 二ヶ月ほど前から第二次リストラが始まると同時に、社内監査も厳しくなっているという噂が流れていた。しかし、重大なミスをした覚えはない。どうしてこんなところに呼ばれたのか、まるで見当がつかない。
 恐る恐る部屋を奥に進み、丸子の正面に腰を下ろす。大崎は、壁際に立てかけてあった別のパイプ椅子を手に、丸子の右隣に向かった。椅子を広げて腰を下ろし、勝見を睨みつけながら腕を組む。
「監査部の丸子です」
 わかりきったことを口に出して言うと、丸子は、早速ですが──、と続けながら、左斜め上方に腕を伸ばした。女性社員が、素早くA4サイズのペーパーを一枚差し出す。正面を向いたままそれを受け取ると、勝見の前に置く。
 それは、備品の発注書だった。パソコンの周辺機器や文房具などの名前が並び、その横に必要な数が打ち込まれている。ペーパーの下には確認済の印鑑を押す小さな枠があり、そこには「勝見」の認印がある。
「あの……、これが何か?」
 上目遣いに丸子を見ながらたずねる。
 丸子は、またも腕を伸ばした。女性社員が別のペーパーをその手に掴ませる。ペーパーが目の前に置かれる。
 同じ発注書だが、さっきのものの前の月に作成されたものだ。
 二枚の発注書を見比べる。いったい、これの何が問題なのだろう。
「まだわかりませんか?」
 丸子がたずねる。ペーパーに目を落としたまま、勝見は首を傾げた。わからない。
 またも丸子が腕を伸ばす。その手に三枚目のペーパーが渡る。勝見の前に新たな発注書が置かれる。
 三ヶ月分の発注書を、じっくりと見比べる。
 ──わからない。
 脇の下から嫌な汗が流れ始めた。
「あの……、いったいこれのどこが……」
「USBとSDカードの数を見てください」
 言われた項目に目を向け、記された数を確認する。
「これは……」
 毎月、かなりの数のUSBメモリとSDカードが発注されている。三ヶ月間の発注数は、合わせるとそれぞれ百以上になる。
「インクも同じです」
 プリンター用のインクも、毎月二十ケース発注されている。
「あなた、こんなに大量のUSBやSDカードやインクが必要だと思いますか?」
 勝見は答えられない。ただ愕然としながら、三枚の発注書を見比べるしかない。
「言うまでもないことですが、大量に発注されているのは、単価が高めの、パソコンの周辺機器ばかりです」
 確かにその通りだ。
「監査部で在庫を確認し、各部署に渡った備品の数をチェックしました。 それによると、ざっと半分ほどの備品が消えてなくなっている計算になります。つまり、誰かが持ち去ったということです」
「誰か、と言いますと……?」
 勝見が顔を上げる。
「備品の発注と在庫の管理は、どなたがやっているんですか?」
 丸子は無表情だ。
「それは……」
 一ヶ月前に辞職した女性社員の顔が浮かんだ。 坂口 好美さかぐち よしみ、四十歳。十年ほど前からずっと五係に在籍していたが、よく気がつく働き者で、全幅の信頼を寄せていた。というか、なるべく楽をしたい勝見にとって、どんな面倒な仕事でもテキパキとこなしてくれる好美は、全能の女神のような存在だった。あくびをしながら指で鼻の穴をほじくっている間に、その日やるべきことをあらかた終わらせてくれていた。
 備品の発注と受取、そして在庫管理まで、全て好美に任せていたことを話すと、大崎は露骨に顔をしかめた。
「つまり──」
 デスクの上に肘をつき、丸子が両手の指を組み合わせる。
「坂口好美は、本当に必要とされている倍の数の備品を発注し、業者から自分でそれを受け取り、水増しした分を横領した。実に単純な手口です。業者と結託して不正を働いていた形跡はありませんから、横領した物品は、ネットオークションのようなものを利用して売りさばいていたのかもしれません。一回の横領額は、数万から、多くても十万円程度だと思われます。しかしそれも、長い間続いていたとしたら、結構な金額になります」
 勝見に向かって、丸子はわずかに身を乗り出した。
「係長になってから一年半の間、あなたはそのことに全く気づかなかったのですか?」
 声が出なかった。勝見は、黙ったまま首を振った。
 発注書に書かれている備品の数など、きちんとチェックしたことは一度もない。好美を信頼しきっていたのだ。
 目の前が真っ暗になった。
 大きくため息をつきながら身体を起こすと、丸子は椅子の背にもたれた。今気づいたが、丸子が座っている椅子だけ、革張りの上等な製品だ。
「わかりました。もう結構です」
 薄い笑みを浮かべながら、丸子がドアのほうに顎をしゃくる。とっとと出て行け、ということだろう。
 自分はどうなるのか、怖くて訊けなかった。お咎めナシ、などということは絶対にない。
 立ち上がり、一礼すると、勝見は踵を返した。背中に丸子と大崎の視線を感じる。
 頭の中では、ギロチンハウスの映像が点滅していた。

西村 麻里にしむら まり

 ペダルを漕ぐ足に力を込める。
 車輪の回転が一気に速まった。ヘルメットが風を切る。風景がどんどん後ろに流れていく。
 ──あと少しの辛抱だ。
 京都市の街中を愛用のロードバイクで走りながら、麻里は唇を噛みしめた。明日、最後の三人を面接すれば、とりあえず楽になれる。それからは、本当にやりたい仕事を始めることができるのだ。
 この二ヶ月間、ほとんど毎日、面接で退職勧告をし続けた。
 ──早期退職に応じていただければ、退職金に割増金が加算されます。もし拒否されるのでしたら、「セカンドキャリア戦略室」に異動となります。
 表情を変えることなく、声にも抑揚をつけず、ゆっくりと告げる。目の前に座るリストラ候補社員の顔が見る間に歪んでいく。
 ──なんで私なんですか。
 言葉を返してくる社員は多い。
 ──お願いですから考え直してください。
 やはり夫がリストラにあって失業中だという女性社員は、目の前で泣き崩れた。
 ──お前なんかに何がわかるんや。ふざけんな!
 五十代の社員には、胸ぐらを掴まれそうになったこともある。
 わずか一年ほど前に入社したばかりの三十五歳の女性に、人生をどん底に突き落とされようとしているのだ。疑問も戸惑いも怒りも無理もないことだと思う。
 面接の間、麻里の隣に座っている人事部長の青柳あおやぎは、薄く目を閉じたまま、ずっと腕を組んでいる。社員が直接部長に泣きついても、苦行僧のように、目を閉じたまま微動だにしない。今回のリストラについては、絶対に口出しをしないよう、社長の胡桃沢からきつく命じられているのだ。
 五年前──。いくつかの子会社の売却と、本社社員三百人の大規模リストラを会社が断行したとき、引導を渡す側の人事部の社員二人が、ストレスに耐え切れず相次いで退職した。人事部長までもが、うつ病になって会社を去ったという。
 その轍を踏まないため、社長自らヘッドハンティングしたのが麻里だった。
 麻里は、日本の大学を卒業後、アメリカの大学院に留学し、「ヒューマン・リソース・マネージメント」を学んだ。それは、従来会社の人事部が担っていた、人事管理や労務管理といった役割を超え、組織全体の設計・開発や、教育、訓練、報酬体系の見直しなど、人的資源の総合的なマネージメントを目指す考え方だ。留学中、麻里は、その道のエキスパートになるべく必死で勉強した。
 二十六歳で帰国すると、アメリカの医療機器メーカーに採用された。アメリカ人の社長の下でのびのびと仕事をし、その手腕は本社からも高評価を得た。しかし一方で、配置転換やリストラを断行する際の麻里の手法は非情そのもので、日本人社員の中には不満が溜まっていった。
 一年半前、社長が日本人に交代するとほどなく、麻里の契約は打ち切られた。今度は麻里自身が、日本人たちからドライに切り捨てられたのだった。
 そんな麻里に声をかけてきたのが、京都クルミ製作所の胡桃沢社長だった。
 ──まず、組織をもう少しスリムにしたいんです。
 まだ五十代の若い社長は、口許に笑みを浮かべながら言った。
 ──それには、社内にしがらみのない方に、客観的な目で判断してもらうのが一番いいと思いまして。
 つまり、麻里のような外部の者が、社員ひとりひとりの過去のデータを精査し、義理人情抜きでリストラする社員を決める。それが最善策ということだ。前の会社での麻里の仕事ぶりは、もちろん胡桃沢は知っている。それで白羽の矢が立ったということだろう。
 ──とりあえず「特任係長」という肩書で人事部に籍を置いてももらいますが、もし無事にリストラが成功した暁には、社内に新たに「人材戦略課」を立ち上げます。あなたには、そこの責任者になっていただくつもりです。
 胡桃沢は、これからの時代の人材活用術について熱い口調で語った。麻里は感動した。この社長ならついていっても大丈夫だと思った。だから、その場で入社を決意した。
 それから一年余り──。誰をリストラするかを考えながら日々を過ごしてきた。
 社内からは血も涙もない人間だと思われているようだが、麻里にだって感情はある。この一年間、ストレスの連続だった。それを解消するため、休日は趣味のロードバイクで走り回った。
 しかし、気の重い退職勧告も、明日の月曜日でひとまず終わりを告げる。
 最終日に面接する三人の顔が頭に浮かんだ。
 ──榊江梨子、下島裕二、勝見亮。
 わずか一週間前まで、この三人の名前は麻里が作成したリストの中にはなかった。下島はリストラの最終候補まで残ったが、ぎりぎりのセーフライン。勝見と榊に関しては、最初から一度も名前が挙がったことはない。それが、次々に問題が発覚して、最終版でリスト入りとなった。リストラの削減目標は決まっているから、彼らのおかげで首切りを免れた社員がいる。わずか一週間で人生の明暗が分かれたということだ。全く、人生何が起きるかわからない。
 ペダルを漕ぎながら、ふうっと大きく息をつく。一瞬だけ、前方から注意が逸れる。
 そのときだった。路地からいきなり自転車が飛び出してきた。
 ──危ない!
 ブレーキをかけながらハンドルを切ったが、手遅れだった。よけるにはスピードを出し過ぎていた。
 麻里の愛車の前輪が、相手の自転車の前輪に激突した。大学生ぐらいの若い男が、自転車といっしょに横倒しになる。
 麻里は、かろうじて転倒を免れた。
「危ないじゃないの!」
 路上に尻もちをついている男に向かって怒鳴る。
 男はポカンとした顔で麻里を見たが、肩をすくめながらのろのろと自転車を起こした。どうやら怪我はしていないようだ。
 ロードバイクで走っていれば、たまにこの程度の接触はある。
「気をつけなさいよ!」
 再びペダルを漕ぎ始めながら捨て台詞を吐く。
「ざけんなよ」
 通り過ぎるとき男のつぶやきが聞こえたが、麻里は無視した。
 ──いきなり飛び出してきた相手が悪いのだ。
 大きな音を立てて舌打ちすると、麻里は愛車のスピードを上げた。


 翌日──。麻里は、榊江梨子、下島裕二、勝見亮を、一人ずつ面接した。三人は揃って早期退職を拒否。その後、一ヶ月の猶予期間がもうけられていたが、それでも彼らの気持ちは変わらなかった。
 三人は、ギロチンハウスの住人となることが正式に決定した。


<次回は6月9日(金)更新予定です>