ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

T 女キャリアは狙われる

 叡山電鉄の修学院駅で電車を降りると、西村麻里はそのまま狭いホームの端に寄った。時刻は、午後九時を少し回ったところだ。梅雨も終盤を迎え、ホームの上にはどんよりとした重たい空気が立ち込めている。
 降車した客たちが、湿気と暑さに顔をしかめながら、ぞろぞろと目の前を通り過ぎて行く。中には何人か知った顔があるが、たまたまこれまで同じ電車に乗り合わせたことがあるというだけで、もちろん麻里になど目もくれない。
 電車が発進してもまだ、麻里は同じ場所にたたずんでいた。
 カンカンカン──、という耳障りな警告音が止み、ホームのすぐ先で下りていた遮断機がゆっくりと上昇を始める。歩道で待っていた人々がそそくさと線路を横断する。
 遮断機の前にいた人の群れが視界からなくなると、麻里は改めて周辺を見回した。こっちに注意を向けている者はいない。
 ホッと小さく息をつき、歩き始める。
 駅に改札はない。ホームの端に作られた短い階段を降り、歩道に出る。
 そこで再び足を止めた。左右を見回す。
 周辺には、スーパーやコンビニ、喫茶店などがあり、行き交う人の姿は見られるが、怪しげな人影は見当たらない。もう大丈夫だろう、と改めて麻里は思った。
 下島裕二──。太鼓腹で髪が薄く、見るからに気の弱そうな、日本中どこにでもいる冴えない中年サラリーマン。
 先週から今週にかけて、下島には駅前で三度待ち伏せされていた。
 おそらく、総務部か人事部の社員の誰かに泣きついて、麻里の現住所を教えてもらったのだろう。同じ会社で三十年も働いていれば、それなりの人脈はあるはずだ。
 とはいえ、麻里の退社時間が予めわかるわけはない。先回りしてずっと同じ場所で待っていたことを考えると、その執念には敬服する。しかし、それと人事とは別問題だ。

 ──お願いですから、もう一度話を聞いてください。
 先週の火曜日──。最初に待ち伏せされたとき、下島はひたすら平身低頭した。暑い中、長い間待っていたからだろう、少ない髪の毛が汗でべったり額に張りついていた。
 ──誤解なんです。転職なんて、考えたこともありません。
 下島は、目の前に見える喫茶店に麻里を誘った。断ると、もしお酒がお好きなら一杯やりながらでも、と食い下がった。
 ──一度決定されたことが覆ることはありません。無駄です。
 毅然とした態度でそれだけ告げ、さっさと歩き出す。
 下島が追いかけてくると、スマホを突き出し、これ以上つきまとったら警察を呼ぶ、と宣言した。そのときは、それで終わった。
 しかし、下島はあきらめが悪かった。金曜日になってまた現われた。ただ、声はかけてこなかった。数メートル先から拝むように手を合わせ、黙って頭を下げた。
 麻里は無視して歩き出した。自宅マンションまでは近道があるのだが、人けのない暗い道なのでさすがに避けた。明るい大通りを大股で進みながら、何度何度も振り返った。下島は追いかけてはこなかった。同じ場所に立って頭を下げ続けていた。
 下島のことは上司には報告しなかった。ただでさえ、よそから来た者が、それも女が、重要な人事問題の全権を握っているということで風当たりが強いのに、任された仕事絡みでトラブルに巻き込まれていることがわかれば、無能な男どもに、それ見たことか、と後ろ指をさされるに決まっている。蛇のようにねちっこい人事部長の、せせら笑いが聞こえてくるようだ。
 そして、二日前の今週の火曜日──。三度目に待ち伏せをされたときは、麻里のほうから近づいた。
 ──これが最後通告です。いい加減にしないと、セカンドキャリア戦略室どころか、すぐに会社にいられなくなりますよ。
 これは効いた。怯えた表情でぷるぷると首を左右に振ると、逃げるようにしてその場を離れていった。さすがにもうあきらめるだろうと思った。

 雨がパラつき始めていた。
 退社するときは降っていなかったので、置き傘は会社のロッカーに入ったままだ。このところ下島のせいで暗い道は避けてきたが、今日は近いルートを行こうと決めた。
 駆け足で駅前の通りを渡り、一階に喫茶店が入った雑居ビルの中を通り抜けて向こう側の道に出た。
 左手に児童公園がある。そこを横断し、小さな川を渡って、住宅地の中の路地を抜ければ、すぐ先が麻里の住むマンションだ。ここから五分もかからない。
 雨が強くなってきた。足を速める。
 公園に入る。外灯はほとんどなく、園内は薄暗い。出入り口のすぐ右手にあるトイレからアンモニア臭が漂ってくる。
 二十メートルほどの幅がある園内を半分近く進んだとき、背後で足音が聞こえた。こっちに近づいてくる。
 ──下島か。
 歩きながら振り返ろうとした。
 金属の棒のようなものが目の端に入る。ヒュッという、鋭く風を切る音が響く。
 次の瞬間、側頭部に衝撃がきた。
 悲鳴を上げる間もなく、麻里はその場に倒れ込んだ。

 中庭に出てギロチンハウスが視界に入った途端、きりきりと胃が痛み始めた。吐き気もする。
 うつむいて目を閉じると、江梨子は鉛のようなため息をついた。
 ギロチンハウスに「入居」してから二週間が経つ。そこはまさに社員の墓場だった。デスクの上に並ぶノートパソコンが墓標に、緩慢な動きでハウスの中をうろつく社員はゾンビに見えた。今更ながら、なんで自分がこんな目に遭わなければならないのかと思う。
 それでも、行かなければならない。辞めたら負けだ。
 ──私を陥れた犯人を見つけ出し、必ずや鉄槌を下す。
 その一念が今の江梨子を支えていた。
 顔を上げ、歯を食いしばりながら一歩踏み出そうとしたとき──、
 江梨子は異変を感じた。
 正面二階の窓に社員たちが連なり、こっちを見下ろしている。笑っている者や、怖いものでも見るように眉をひそめている者もいる。
 視線を上に向けた江梨子は、思わず眉間に皺を寄せた。本社は五階建てだが、二階だけではなく、三階も四階も、五階の窓にも社員の姿が見えたのだ。
 弾かれたように顔を左右に振る。後ろを振り返る。同じだった。中庭に面した全ての窓に社員が連なり、江梨子を見つめている。
 ──なんだ、なんだ、なんだ……。
 自分が動物園のゴリラにでもなったような気分だった。
 いったい何が起きているのかわからないまま、片隅に建てられたプレハブ小屋に急ぎ足で向かう。中庭に人の姿はない。
 元々、この中庭は社員の憩いの場だったという。昼休みには、ベンチでお弁当を広げたり、バドミントンをしたり、芝生に寝転がって昼寝したりする社員の姿があった。しかし、火事を出した倉庫が再建され、部品の一時保管所だったプレハブ小屋がギロチンハウスとして再利用され始めると、誰も中庭に出てこなくなった。ここは、ゾンビ社員に汚染された穢れた場所なのだ。
 無数とも思える視線を全身に感じながら、プレハブ小屋の前にたどり着く。なんだか中が騒がしい。やっぱり何か起きているようだ。
 ガラスの引き戸に手を伸ばしながら、一番近い左側の社屋を見上げる。二階の窓の向こうで、数人の若い女性社員が、大きく目を見開きながら両手で口を覆うのが見えた。キャーッ、と悲鳴を上げたのだと想像できた。今度は、ゴキブリかクモにでもなったような気分だ。
 うんざりしながら、ガラガラと音を立てて引き戸を開ける。
 その途端、熱気が全身に吹きつけてきた。いつもはひっそりと静まり返り、凍りついているハウスの中の空気が、今朝は沸騰していた。
 興奮した様子で顔を寄せ合い、話し合っている住人がいる。ひきつった笑みを浮かべながらノートパソコンのキーボードを叩いている住人もいる。ヒエー、とか、キャオー、とかいう、意味不明の雄叫びを上げている住人までいる。
 引き戸の前から、江梨子はしばらく動けないでいた。


<次回は6月16日(金)更新予定です>