ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

T 女キャリアは狙われる

 ギロチンハウスに下島が戻って来たのは、午後四時過ぎのことだった。
 ガラガラと音を立てて引き戸が開き、下島が姿を見せると、ハウスの中がどよめいた。
 もし西村麻里を襲ったのが下島だったら、拍手喝采して迎えるところだっただろうが、彼が犯人でないことはすでにみんな知っている。刑事に事情を聴かれたあとハウスに戻った江梨子が、他の住人に問われるままに、下島のアリバイについて話したからだ。住人たちは、がっかりしたような顔で自分の席に戻っていった。
 今、住人たちは、戸惑ったような、困ったような顔を下島に向けている。まるで無関心にパソコンや雑誌に目を向けている住人もいる。
 下島の後ろから、女性社員がひとり、ハウスに入ってきた。監査部長の丸子に、影のごとく付き従う隠密のような女。その名前を知るものは、ハウスの中にはいない。今日は、地味なグレーのスーツに白いブラウス。長めの髪は後ろでひとくくりにし、大きな黒縁眼鏡をかけている。化粧は薄く、口紅も引いていないように見える。さながら、田舎の小学校の生活指導担当教諭といったところか。
 いつもはポーカーフェイスの彼女が、ハウスに入った途端、わずかに顔を歪めたのがわかった。エアコンの設定温度が高めなのに加えて、今日は朝から住人たちが興奮していたせいで、狭いハウスの中に男どもの体臭が熱気と共に籠っているのだ。
 丸子の手下の女隠密に一瞬でも不快な思いをさせたことで、江梨子はちょっとだけ溜飲を下げた。しかしすぐに、そんなことで溜飲を下げている自分にうんざりした。
 よたよたとしたおぼつかない足取りで、下島が江梨子たちのテーブルに近づく。
「大丈夫ですか?」
 勝見が声をかけると、下島は微かにうなずき、ゆっくりと椅子を引いて腰を下ろした。
 ほとんどの住人がこっちに顔を向けている。
「みなさん」
 女隠密の声で、全員が一斉に前方を見た。
「終業時間まで、まだ一時間近くあります。自分の仕事に戻ってください」
 ──自分の仕事……。
 江梨子は失笑した。
 ギロチンハウスの住人には、毎週レポートの提出が義務づけられている。先週のテーマは、「会社の売り上げを十パーセント伸ばす新企画」。今週は「精密機器メーカーの今後の展望」。しかし、提出したレポートが誰かに読まれているとはとても思えない。
 ハウスのあちこちからも、自嘲したような笑い声が聞こえてきた。それでも女隠密の表情は変わらない。何を考えているのか、まるで読めない。
 瞬きすることなく一度ハウスの中を見回すと、女隠密は、足音を立てることなく、窓際にぽつんとひとつ置かれているデスクに向かった。終業時間までハウスの中を見張るつもりなのだろう。
 ギロチンハウスには、これまでもときどき、不意に監査部の社員がやって来ることがあった。このハウスを管理しているのは、何故か人事部ではなく監査部なのだ。それだけではない。西村麻里は、監査部がある五階に個室を与えられている。まるで監査部に守られているかのようだ。
 今回のリストラに関しては、人事部というより、監査部がその実権を握っているように見える。これはやっかいだった。社内憲兵隊である監査部の直接統治により、ギロチンハウスの住人は過酷極まりない状況に追い込まれているのだ。
 ハウスの住人は、昼の休憩時間とトイレ以外、社外はおろかハウスの中から出ることも基本的に許されていない。監査部の社員が何の前触れもなくやって来るのは、規則を守っているかどうかをチェックするためだ。
 抜き打ちの監視、というのが実に巧妙なところだ。
 ハウスの住人は、この息苦しい空間から脱出したいといつも考えている。しかし、常時監視役がいれば、なんとか耐えるしかない。ところが、ときどきしか監視役が来ないとなると、ほんの出来心でハウスを離れ、社内のどこかで油を売ろうとする輩が出てくる。そんなときに限って、監査部の社員が現れる。あるいは、このハウスの内部にスパイがいて、秘密の方法で連絡しているのかもしれない。
 長時間席を離れていた住人がハウスに戻ってくると、監査部の社員は、すぐさま住人を「奥の院」に連行する。そして、「談話室」という名の「取調室」で反省文を書かされ、丸子から長時間にわたってねちねちとした陰湿極まりない説教を受ける。さらには、会社を辞めるよう遠回しに示唆され、最後には、刑事ドラマと同じく、早く楽になっちまえよ、と耳許で囁かれる。この仕打ちに耐えられず辞職を願い出た社員は、両手で数えきれないほどだという。
 下島と話したかったが、女隠密がそれとなくこっちをうかがっているのに気づき、やめておいた。かわりに、バッグからメモ用紙を取り出してそこにペンを走らせた。
『下島さんに送ってください 仕事のあと昨日の公園で待ってます』
 それだけ書くと、パーテーションの向こうに手を伸ばして、メモを勝見の前に置いた。背中を反らして横目でうかがうと、勝見がメモを隣に送るのがわかった。
 しばらくすると、勝見の手がパーテーションの横から伸びた。江梨子の前にメモを置く。『了解』と書かれた下に、別の筆跡で『ぼくもまぜてください』と添えられていた。さらに、その下には、江梨子と下島の似顔絵が描かれている。ひと筆書きのようなシンプルな線で、かなりデフォルメされているが、江梨子と下島の特徴をよく捉えている。
 勝見の絵のセンスに舌を巻きながらパーテーションの向こうに手を伸ばし、親指と人差し指でOK印を作る。
 女隠密がこっちを見ているのに気づいた。慌てて手を引っ込める。
 ──全く、何やってんだろう。
 江梨子はため息をついた。
 これでは本当に、堅物の女教師の目をかいくぐって放課後の約束をする小学生のようだ。
 疲れがどっと押し寄せてきた。椅子の背にもたれると、江梨子は腕を組み、目を閉じた。そして、終業時間までの居眠りタイムに入った。

 五時になり、女隠密がハウスから外に出ると同時に、住人全員がガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。
 ほとんどの者は出口に直行したが、この日は数人が下島の許に集まってきた。警察の聴取の様子を聞こうというのだろう。刺激のまるでない日常に突然訪れた、核爆発並みの衝撃的事件なのだ。これは当然の反応だろう。
「じゃ、お先に」
 下島に声をかけると、江梨子は、勝見を従えてギロチンハウスを出た。
 社屋の窓には、相変わらず社員たちがへばりついてこっちを見下ろしている。
 江梨子の姿を見て色めき立つ男性社員のグループの姿が、視界に入った。おそらく、誰が西村麻里を襲った犯人か、賭けでもしているのだろう。女同士の嫉妬や恨みは男より強いと信じているバカな男性社員どもが、江梨子に本命の二重丸でもつけているのかもしれない。
 江梨子自身は、男同士の妬みのほうが陰湿だと思っている。それ以上に、女に対する男の嫉妬たるや、ヘドロのようにどろどろと汚らしい。
 ──ざけんじゃねえ!
 心の中で啖呵を切りながら、江梨子は、三百六十度顔を回し、窓という窓を睨みつけた。その視線に気圧されるように、誰もが身体をのけ反らす。
 それを見て、勝見が楽しげな笑い声を漏らした。
「カッコいいな、榊さんは」
「女は度胸よ」
 ──こんなことでメゲてはいられない。これではなんのために京都に来たのかわからない。
 江梨子は、大きく一度深呼吸した。
 京都への転勤の話が出た三年余り前──。江梨子には交際している相手がいた。大学時代に付き合っていた男だが、その後、お互い仕事が忙しくなり、自然消滅のようにして別れていた。ところが、五年前、バツイチになった彼と偶然再会した。そして、それをきっかけにまた付き合いを始めた。
 二年近く交際を続け、いよいよ結婚を真剣に考え始めたとき、お互いに転勤の話が持ち上がった。エリート銀行マンの彼は、ベルギーへの転勤を命じられた。仕事を辞めて自分についてきてくれることを彼は望んだが、悩んだ挙句、江梨子は結婚をあきらめた。
 ──そうまでして選んだ仕事なのだ。このままおとなしく退職するわけにはいかない。
「行きましょう」
 半歩後ろにいる勝見を振り返ると、江梨子は大股に歩き出した。


<次回は7月7日(金)更新予定です>