ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

U 事件は連鎖する

「お酒、呑むでしょ?」
 立ち上がりながら、弾んだ声で坂口好美は言った。座卓を挟んだ向こう側では、彼がやさしく微笑んでいる。
 彼に背を向け、跳ぶようにしてキッチンに向かう。
 こんな気分になったのは久し振りだ。京都クルミ製作所を退職してから、ずっと不安な日々を過ごしてきた。感情を抑えきれず、彼を脅すような言葉も口にした。でも、もう思い悩む必要はない。付き合い始めて五年近く。どんなにこの日を待ったことか。
 奥さんとはもう十年以上前から家庭内別居状態だったというが、下の息子が社会人になるまではと我慢を続けていたという。でも、その息子も来年の春大学を卒業する。意中の会社から、内定ももらっているという。
 たった今、「もう障害はない」と彼は言ってくれた。息子が家を出たらすぐに離婚するから、もう少しの辛抱だと。
 彼の好きなハイボールを作るために、氷を取り出そうと冷蔵庫の前に立つ。
 背後で、床を踏む足音が聞こえた。彼が近づいてくる。
 後ろから抱きしめられるのだと思い、恥ずかしさに肩をすくめたとき──、
 シュッという音と同時に、首に何かが巻きつけられた。声を上げる間もなく、身体が浮き上がる。首に何かが食い込む。
 好美は仰向けに持ち上げられた。天井が見える。
 何が起きたのかわからないまま、好美の意識は闇に吸い込まれた。

 金曜日の夜。木屋町通にあるワインバー。
 カウンター八席と四人掛けのテーブル席がひとつだけの店内にいるのは、今は勝見だけだ。カウンターの向こうでは、チョイ悪オヤジ風の髭面マスターが、暇そうにグラスを磨いている。
 ドアが開いた。薄暗い照明の中に、やや太めの女性のシルエットが浮かぶ。膝丈のピンクのワンピースに、白いカーディガンという組み合わせ──。元々ぽっちゃりしているのに、どうしてそんな膨張色で統一したいのか理解に苦しむのだが、彼女の好みなのだから仕方がない。
 カウンターの端の席で、勝見は、やあ、というように手を上げた。
「ごめんね、ちょっと仕事が長引いちゃって」
 佐々木ささき圭子けいこが、ハイヒールの音を響かせ、満面の笑みを向けながら歩み寄る。勝見もまた、とびっきりの笑顔で迎える。
 圭子は、総務部の陰の主ともいえるお局様だ。
 高校を卒業してすぐ京都クルミ製作所に就職。二十二歳のとき職場の同僚と結婚して退職するも、わずか三年で夫が病死してしまう。不憫に思った会社側は、契約社員として圭子を再雇用する。その五年後には正社員に復帰。新卒で入社してから、結婚している間の三年間を除き、圭子はほぼ四半世紀の間、同じ総務部に所属している。現在四十六歳で独身。部長ですら逆らうことができない、アンタッチャブルな存在だ。勝見を五係の係長に推薦してくれたのも圭子だった。
「ほんま久し振りやねえ。元気やった?」
 自分も勝見と同じ赤ワインをオーダーすると、顔を近づけながら訊いた。
 会社を出るとき、思い切り化粧を直してきたのだろう。顔にいろんなものを塗りたくった形跡がある。唇もてらてらとピンクに光っている。
「まあ、元気は元気ですよ」
 朗らかな口調で勝見は応えた。
「どう? ギロチンハウスは」
 ギロチン──、という響きに反応し、マスターが一瞬こっちを見た。もちろん、すぐにまた元のポーカーフェイスに戻り、ワイングラスを圭子の前に置く。客の前で、マスターは空気でなければいけない。
「ギロチンハウスか……。居心地がいいとは言えないな」
 勝見の言葉に、圭子が悲し気な表情になる。
「ごめんね。守ってあげられなくて」
「圭子さんのせいじゃないです。まずは乾杯」
 二人はグラスを合わせた。
 マスターが、フードメニューを二人の間にさりげなく置く。顔を寄せ合ってメニューに目を落とす。
 なんともいえない香りが鼻腔をくすぐった。熟女の体臭は結構好きなのだが、香水と混じり合うと微妙な感じになる。余計なことをしなければいいのにと思うのだが、おばさん臭を消したい気持ちはわからないではない。この香水は、ディオールか。
「いい香りですね」
 勝見は、にっこり微笑んだ。圭子が嬉しそうに頬を弛める。
 何品か適当にオーダーすると、勝見は、圭子にたずねられるままにギロチンハウスの様子を面白おかしく話した。圭子の笑い声が店内に響き渡る。
 そのあと、西村麻里襲撃事件の話題に移る。
 社員たちの間では、当然のごとくその話題でもちきりで、賭けまで流行っているという。犯人の本命は江梨子だという。
「あの女ならやりかねないって、結構評判よ」
 二杯目のワインを呑み干すと、圭子は嘲るような口調で言った。
「へえ」
 そこは軽く受け流す。
「ところで──、今日は訊きたいことがあるんですけど」
 勝見は圭子に顔を向けた。
「なに?」
 とろんとした目で圭子が見返す。すでに軽く酔い始めている。
「坂口好美さんて、なんで突然会社辞めたか知ってます?」
 ん──? という顔で、圭子が勝見を見た。
「どうして、今頃そんなこと知りたいの?」
「僕がギロチンハウス送りになったのは、元はといえば彼女のせいですからね。ずっと気になってたんです。僕は、一身上の都合としか聞いてなくて……。圭子さんだったら何か知ってるんじゃないかと思って」
 結局、麻里は、リストラを免れた社員の名前を教えてはくれなかった。ただ、自分たち三人のおかげで救われた社員が存在する、という事実だけは認めた。
 病院からの帰り──。江梨子は、三人それぞれに情報収集しよう、と提案した。集めた情報を持ち寄り、突き合わせたら、これまで見えていなかった事実が浮かび上がってくるかもしれない。
 というわけで、勝見は、圭子を呼び出したのだった。
「会社を辞めた理由ねえ……」
 ふうっ、と鼻で息をつくと、圭子は首を傾げ、薄く目を閉じた。
 これは何か知っているときの態度だ。勝見は、黙って次の言葉を待った。
「不倫……」
 やがて、ぽつりと圭子は言った。
「──かな」
「ほんとに?」
 勝見はかなり驚いた。
 いっしょに働いていたときには、真面目そのものの人だと思っていたのだ。もっとも、備品を横領していたのだから、真面目なわけはないのだが。
 ──それにしても、あの地味を絵に描いたような好美が不倫とは……。
「誰と不倫してたんですか?」
「そこまではわからへんのよ」
 圭子が眉をひそめる。
「もう一年以上前のことなんやけど、女子社員だけで呑みに行ったとき、珍しく彼女も来てね。そのときに酔っぱらって……、不倫なんかするもんやないですね、って私に言ったのよ。私、びっくりしてね。相手の名前を訊き出そうとしたんやけど、急にシラフに戻って、冗談ですよ、って笑ってごまかして……。けど、あれはほんまのことやったと思うな。ケチくさい横領始めたのも、不倫のストレスが原因やったんやないかて、私は思ってるんやけどね」
「不倫相手は、うちの社員ですかね」
「断言はできひんけど、私はそう思う」
「好美さんが会社を辞めたのは、その不倫相手が原因なんでしょうか」
「それも断言はできひんけどねえ。ただ、彼女が辞めたの、リストラの真っ最中やったでしょ? 好美さんの相手がうちの社員やったとしたら、不倫がバレでもしたら、ギロチンハウス送りになる可能性が高いからね。そうなる前に、彼女を退社させたのかもしれへんね」
「なるほど……」
 勝見は、ワイングラスに目を落とした。
 ──好美に会社を辞めさせたのがその不倫相手だとして、僕たちを陥れた陰謀に、その男が関わっている可能性はあるだろうか。
 グラスをゆすりながら、ぼんやりと考えを巡らせる。
「どうしたん?」
 心ここにあらずといった様子の勝見を、怪訝な表情で圭子が見つめる。
「あ、いや、ごめんなさい」
 空になっている圭子のグラスに目を向け、おかわりするかどうかたずねる。「呑む〜」と甘えた声で答えが返ってくる。
 マスターに三杯目のワインをオーダーすると、
「誰なんですかね、好美さんの不倫相手」
 重ねて勝見は訊いた。
「そんなこと、いまさら詮索してもねえ……」
 圭子がこっちに上半身を傾けてくる。肩が触れ合う。
「好美さんの不倫相手がわかっても、あなたがギロチンハウスから出てこられるわけやないし」
「大崎総務部長とかは?」
 構わず続ける。
 圭子が身体を離した。
「あなた、まさか、不倫相手を脅してギロチンハウスから脱出しようなんて考えてるんやないでしょうね」
「好美さんの相手が、大崎部長とか、吉田経営企画部長とか、鈴本営業部長とかいった大物なら、取り引きできるかもしれないじゃないですか」
 それは、今咄嗟に考えついたことだった。でも、悪いアイディアではないように思う。社内不倫が明るみに出たら──、しかも、上司が部下の女性に手をつけたとなったら、無事では済まされない。取り引き材料としては充分だ。もっとも、好美はもう退職してしまっているから、在職中の不倫を証明するのは難しいが。
「そんなこと、よく思いつくわね」
 圭子は目を丸くした。
「こっちも必死ですから」
 真面目な顔で応える。
 江梨子は、三人がほぼ同時にリストラ勧告を受けたことから考えて、それぞれが所属していた、経営企画部、営業部、総務部の三つの部署が連携しているはずだと推理した。しかも、そのやり口から見て、ヒラ社員とは思えない。部長同士が結託している可能性がある。
 そこで調べてみると、三人の部長は同期入社だった。
「あの三人て、仲はいいんですかね」
 何げない感じで、勝見は訊いた。
 部長同士の交流など、下々の社員には知りようがない。今までは興味もなかった。
「仲いいなんてもんやないよ」
 三杯目のワインに口をつけると、圭子はバカにしたように笑った。
「あの三人、しょっちゅうツルんでるわ。呑みに行ったり、ゴルフに行ったり……。おっさん三人集まって何が楽しいんだか」
「へえ、そうなんだ……」
 疑惑が深まった。
「三人と仲がいい社員て、他にいます?」
「人事部長の青柳かな」
「青柳部長?」
 やや意外だった。三部長は五十代半ばだが、青柳は、確か五十歳になったばかりのはずだ。
「吉田と同じ大学で、弓道部かなんかの後輩やったんと違うかな。大学の体育会系のクラブって、上下関係はっきりしてるやろ。せやから、今でも青柳は吉田に頭が上がらんで、いつもへこへこしとるわ」
 ──なるほど。
 直接今回のリストラに関わっていないとはいえ、人事部長である青柳が経営企画部の吉田と近しい関係となると……、ますます疑惑が深まる。この四人が、自分たち三人を陥れた黒幕だろうか。
「ねえ、圭子さん」
 お局様に顔を近づける。
「なに?」
 圭子の鼻の穴が膨らんだ。右の穴から鼻毛が一本出ているのが見える。
「できれば、でいいんですけど……、これから先、今話が出た四人の部長に関することで何か新しい情報があったら、こっそり教えてくれませんか」
「新しい情報って?」
「好美さんの不倫相手が四人の中の誰かだったりとか、会社で何かおかしな行動をとってるとか、他にも誰かとツルんでることがわかったとか──。とにかく、なんでもいいですから」
「あなたがギロチンハウスを脱出するために?」
「そうそう。僕のために。それから、坂口好美さんの現住所と電話番号も調べてもらえませんか? なるべく早く」
「どうするの?」
「直接話して、退職した本当の理由を訊いてみます」
「話してくれるかな、そんなこと」
「当たって砕けろ、ですよ」
「いいわよ」
 圭子は、また肩を寄せてきた。
「あなたのためにスパイになってあげる。好美さんの住所と電話番号は……、そうね、早いほうがいいなら、明日、休日出勤して調べてきてあげる」
 唇の端に、思わせぶりな笑みが浮かぶ。
「そのかわり……、今夜、酔ってもいい?」
「もちろん」
 勝見はうなずいた。
 これまでにも二度、酔った圭子をマンションまで送ったことがある。まあ、熟女と寝るのは嫌いではないから、それは全く構わない。二の腕のたるみ具合が、欲情をそそる。
 ワイングラスを傾けながら、自分はマザーコンプレックスなのだろうか、と勝見は考えた。あるいは、ただの年増好きなのかもしれない。
 江梨子の顔が、ふと脳裏を過った。
 嫌いなタイプではない。しかし、熟し具合がまだ足りない。もうちょっとだけ、たぽっとした感じがほしい。
 ──まあ、あと数年後には僕好みの熟女になるかもしれない。
 肉がついた江梨子の二の腕を想像し、勝見は鼻の下を伸ばした。


<次回は7月28日(金)更新予定です>