ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

U 事件は連鎖する

 土曜日の昼下がり。下鴨しもがも神社にほど近い住宅地の一角。
 二階建ての大きな屋敷の前で、江梨子は足を止めた。石造りの門に、『立浪』と筆文字で記された立派な表札がかかっている。
 訪れるのは二度目なので、道に迷うことはなかった。最初に来たのは、一年以上前。経営企画部第二課の課長への昇進を、内々に打診されたときだ。そのときは、是非やらせてほしい、と答えた。
 表札の下にある、インターホンのボタンに手を伸ばす。ピンポーンという軽やかなチャイム音が響き、ほどなく、〈はい〉という張りのある女性の声が応えた。
「榊です」
 昨日のうちに、電話で今日の訪問は告げてある。
 門扉から三メートルほど先にある木製ドアが開き、紺色のブラウスに白いパンツを身に着けた立浪麗子れいこが姿を現した。柔和な笑顔を向けながら、色とりどりの花が両側に植わったポーチを歩いてくる。
「ご無沙汰しております」
 江梨子は深々とお辞儀した。
「いらっしゃい」
 胸ほどの高さがある鉄製の門扉を、内側から麗子が開ける。
 敷地の中に入り、元通り門扉を閉めると、江梨子は麗子のあとについてドアをくぐった。広々とした玄関でスリッパに履き替え、長い廊下を奥の部屋まで進む。
 そこは、二十畳ほどの広さがあるリビングだ。内装や家具などは、シンプルで温かみがある北欧風にまとめられており、麗子の人柄とセンスのよさがうかがえた。中庭に面した突き当たりの壁は全面がガラス張りになっており、明るい日差しが部屋の隅々にまで降り注いでいる。
 国立大学の教授だった夫を五年前に病気で亡くしてから、麗子は、この広々とした屋敷にひとりで暮らしていた。化学の研究者になったひとり息子は、今は結婚してアメリカに住んでいるという。
「お休み中にお邪魔して、申し訳ありません」
 ソファに腰を下ろすと、江梨子は改めて軽くお辞儀した。
「お休みって……、私、もう会社を首になってるのよ」
 麗子は、二十代の娘のように、ころころと楽しげな笑い声を上げた。六十代半ばのはずだが、染めているのか髪は黒々と豊かで、顔にはしわもシミも見えない。身体はよく引き締まり、背筋もしゃんと伸びている。その立ち姿は、四十代と見紛うほど若々しい。
 いったんリビングを出ると、麗子は隣接するダイニングルームに入り、ティーポットとカップを二つ、トレイに載せて運んできた。優雅な仕草でカップに紅茶を注ぎ、ひとつを江梨子の前に、もうひとつを自分の前に置く。
「で──、突然どうしたの? 何か訊きたいことがあるって?」
 自分のカップを手に取ると、ソファで足を組みながら麗子はたずねた。
「実は──」
 江梨子は、自分がギロチンハウス送りになったこと。そして、そうなるまでのいきさつを、下島と勝見のことも含めて、かいつまんで説明した。麗子は、顔色ひとつ変えず、途中ひとことも口を挟むことなく、最後まで話を聞いた。
「ごめんなさい」
 まず、そう言って頭を下げる。
「私が辞めたせいで、あなたには大変な思いをさせてるみたいね」
「いえ。別に立浪さんのせいじゃ──」
 慌てて江梨子が首を振る。
「誰かに仕組まれたんです。それを調べてるんです」
「そう。あなたらしいわね」
 麗子が微笑む。
「でも、会社を辞めたあとのことは、私にはわからないわよ」
「はい。それはいいんです。今日、うかがいたいのは……、今回のリストラには、どうもよくわからないことが多くて、何かご存じのことがあるのではないかと」
「わからないこと?」
「どうして社長が、西村麻里さんにリストラの全権を委任したのか。それから、普通は人事部の案件のはずなのに、どうして監査部が今回のリストラに噛んでいるのか」
「なるほど」
 ソファの背にもたれ、腕を組むと、麗子はしばらくの間黙り込んだ。どこまで話していいものか迷っているのかもしれない。会社を辞めたとはいえ、元役員には、守秘義務みたいなものがあるのだろう。
「実はね──」
 やがて、おもむろに、麗子は話し始めた。
「これはまだ、役員クラスしか知らないことだと思うけど……、今回のリストラの先には、組織の再編があるのよ」
 ──組織の再編?
 江梨子は眉をひそめた。
「社長は、組織をスリムにしようと考えてるの。社員を減らした上で、今あるいくつかの部署を統合しようとしているのよ。西村麻里さんは、リストラの先の再編を見据えて、社長自らがヘッドハンティングしてきたの」
「再編のことは、社員には隠しておくつもりなんですか?」
「あまり早くわかってしまうと、社内がざわつくからね。ぎりぎりまで秘密にしておきたいんでしょうね。リストラが終了したら、一気に再編に動こうとしていたはずよ。でも、その矢先に西村さんが襲われてしまったから──」
「今、その計画は頓挫しているということですか?」
「そうね……。もちろん、西村さんがいなくなったぐらいで、計画が中止になることはないと思うけど。リストラの真っ最中に人事担当者が襲われて、ただでさえゴタゴタしているこのタイミングで、強引に計画を進めることはないでしょうね」
「あの……、部署の統合、というのは……、今ある部署の数が減るということですか?」
「そうなるわね」
 つまり、部長の数も減るということだ。今いる部長の何人かが、リストラ候補になる可能性もあったということではないか。
「立浪さんはさっき、再編のことは役員クラスしか知らないとおっしゃいましたが、部長の中で知っている人はいないんでしょうか」
「まあ、こういうことは、秘密にしておいても、どこからか漏れるものだから……」
 吉田、鈴本、大崎、三人の部長の顔が浮かんだ。
 ──奴らは、自分たちのうち誰かがリストラされる危険を察知し、その身代わりに、ひとつの部署からひとりずつ人身御供を差し出したのではないか。そうすれば、部長職にはとどまれないとしても、少なくともギロチンハウス送りにはならないで済む。
「どう? あなたたちを陥れた、卑劣な犯人の姿が見えてきた?」
「はい」
 江梨子はうなずいた。まだ証明はできていないが、これで標的は完全に定まった。
「リストラに監査部が関わっているのも、その後の再編に絡んでのことですか?」
「五年前のリストラのとき、人事部の社員が何人も退職しているので、その轍を踏まないために、今回は、タフな監査部に西村麻里さんのサポート役を担わせる──。社長はそう説明していたけどね」
「でも、立浪さんは、本当はそう思っていない。何か別の理由があると考えている。──ですよね?」
「まあね」
「その理由、教えていただけませんか?」
「それはやめとく」
 麗子は薄く笑った。
「どうしてですか?」
「あなたのためにならない。監査部には首を突っ込まないほうがいいわ。私のようになるから」
「つまり、会社を追い出されると」
「ええ」
 江梨子は唇を噛んだ。
 社長と監査部の繋がりは、役員でもアンタッチャブルということか。
「ひとつだけ訊いていいですか?」
「なに?」
「立浪さんは、会社の内部情報を、今も誰かから受け取っておられますよね?」
 麗子の表情が動いた。
「どうしてそう思うの?」
「さっき、ギロチンハウス送りになったと私が話したとき、全く驚かれませんでした。すでにご存じだったんでしょう?」
「さすがに鋭いわね」
 麗子が苦笑する。
「立浪さんは、何かしようとしている。会社のために」
「私は首になったのよ」
「でも、立浪さんと志を同じくする役員もいるでしょう。その人たちと結んで──」
「榊さん」
 強い口調で、麗子が止めた。
「余計な詮索は、あなたのためにならない。さっき、そう言ったでしょう」
「私はギロチンハウスの住人ですよ。失うものなんて何もないです。このままあそこに居続けるぐらいなら、戦って散ったほうがまだマシです。立浪さんの力にならせてください。お願いします」
 江梨子は、上半身を九十度に折り曲げた。そして、そのままの姿勢でいた。
 しばらくして、頭の上でため息の音が聞こえた。
「さすがに、私が見込んだだけのことはあるわ」
「はい?」
 江梨子が頭を上げる。
「あなたは頭がいいし、度胸もある。味方になってくれたら、とっても心強いでしょうね」
 江梨子は、ソファの上で居住まいを正した。麗子がテーブルの上に身を乗り出す。
「聞いてしまったら、後戻りはできないわよ。本当に会社を首になるかもしれない。それでもいい?」
「はい」
 ごくり、と音を立てて、江梨子は唾を飲み込んだ。
 足を組み直し、フッと小さくひとつ息をつくと、
「うちの会社にはね、闇があるの。その闇を白日の下にさらさない限り、健全な会社にはなれない」
 苦渋に満ちた顔つきで、麗子は言った。


<次回は8月4日(金)更新予定です>