ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

U 事件は連鎖する

 月曜日の朝。本社営業部に一番近いトイレ。
 個室の中で、下島は、今朝の家族の様子を思い出していた。
 朝食を食べている間、妻も二人の娘も、ひとことも口を利いてくれなかった。登校するため娘たちが揃って家を出て行くと、妻は「失業だけは勘弁してよ」とだけ言った。それからは下島に背を向け、黙々と洗い物をしていた。
 家庭で何か問題が起きると、妻と娘たちは結託する。誰もお父さんの側についてくれない。その鉄の結束たるや、男親の理解の範疇を超えている。
 冴えない風貌の父親ながら、それでもそれなりに尊重されていたのは、京都クルミ製作所という一流の会社で働いているからだ。もし会社を首にでもなれば、本当に死ぬまでまともに話をしてもらえないかもしれない。
 背筋を震えが走った。会社だけでなく家族にも見捨てられたら、自分はどうしたらいいのだろう、と思った。
 頭を抱え、大きくひとつ息をつく。
 そのとき、トイレに入ってくる足音がした。
 顔を上げ、耳を澄ます。ドス、ドス──、という大きな音と独特のリズム。がに股の巨体に特有のものだ。鈴本に違いない。
 下島は、先週からの数日間、就業開始時間の三十分前からこのトイレの個室にこもり、鈴本営業部長が来るのを待っていた。出勤してきた鈴本が、まずトイレで用を足す習慣があるのを知っていたからだ。
 これまでは、鈴本以外にも小用を足している営業部員がいて、声をかけられなかった。できれば他に誰もいないときに話したかった。
 幸運なことに、今日は、トイレに他に社員はいない。
 個室のドアを薄く開け、鈴本が小便器に向かうのを待つ。
 チャックを下ろし、放尿を始めた瞬間、下島は個室を飛び出した。
「わわ──、なんやなんや」
 出し始めたばかりの小便をいきなりは止められず、鈴本は首だけ捻って下島を見た。
「お話ししたいことがあります」
 早口で下島は言った。小便をしている間に、必要なことは全部話し終えたい。トイレを出て営業部に逃げ込まれたら終わりだ。
「私は、営業部員全員に、ヘッドハンターのことを訊きました。すると、おかしなことがわかりました。ヘッドハンターは、成績優秀な営業部員には声をかけていません。声をかけたのは、私のような冴えない社員だけです。辞めても特に会社に損失はなく、ギロチンハウス送りになっても誰もおかしいと思わない、そういう社員だけです。つまり、部長は、誰かを辞めさせる口実を作るために、偽のヘッドハンティングを仕掛けたんです」
「アホなことを──」
「本当にヘッドハンティングやというなら、ヘッドハンターの写真を、私のスマホに転送していただけませんか。身元をこちらで調べますから」
「たわけたことを言うな! そんな写真は、とっくに消去した」
 便器に当たる小便の音が小さくなっている。もうすぐ終わる。
「これを見てください」
 下島は、スーツのポケットからスマホを取り出した。鈴本に向かって画面を突き出す。
「私、人の顔を覚える能力だけは誰にも負けません。私の記憶を頼りに、似顔絵を描いてもらいました」
 画面に映っているのは、勝見に描いてもらった似顔絵だ。かなりデフォルメされているが、ヘッドハンターの特徴をよく捉えている。
 一瞬で鈴本の顔色が変わった。
 同時に、小便の音が止む。鈴本が急いでチャックを引き上げようとする。
「ちゃんと振らないと、シミになりますよ」
 まだ全部言い終えていない。
 鈴本は自分のイチモツに目をやった。まだ雫が垂れているのを確認したのか、苦い表情でぷるぷると振り始める。
「なんでそんな卑劣なことをしたんですか。そうしないと、自分がリストラされるからですか? この件には、吉田部長と大崎部長も関わってるんですか!?」
 チャックを引き上げた。
「貴様、こんなことをしてただで済むと思ってるのか!」
 鈴本の顔は、怒りで真っ赤になっている。
「取り引きしませんか! このことは誰にも言いませんから、私を元の部署に戻してください。私には家族が──」
「ふざけるな!」
 便器の前を離れる。
「部長!」
 下島が必死で食い下がる。
「まだ『追っかけ漏れ』の心配が!」
 しかし、もう鈴本は振り返らなかった。ドスドスと大きな音を響かせてトイレを出て行った。

 しょげ返りながら、下島はギロチンハウスに入った。九時の出勤時間ぎりぎりのところだ。
「何してたんですか?」
 自分の席につくと、パーテーションの横から身を乗り出して勝見が訊いた。その向こうの席では、江梨子もこっちに顔を向けている。
 鈴本部長に直談判することは、江梨子にも勝見にも黙っていた。話したら止められるかもしれないと思ったからだ。二人は、おそらくもう少し慎重にコトを運ぼうとしているはずだ。
 でも、ぐずぐずしている余裕は自分にはなかった。家族の沈黙にも、ギロチンハウスの暮らしにも、長くは耐えられそうにない。
「ちょっとな。鈴本部長の様子をうかがってきたんや」
 下島は言葉を濁した。
「無茶しないでくださいよ」
 勝見が釘を刺す。
「チームワークが大切なんですから。抜け駆けはなしですよ」
「わかってる。けどな──」
 俺は独身のあんたらとは違うんや、と続けようとしたとき、
「シッ!」
 江梨子が人差し指を口に当てた。
 いつの間にか、わずかに引き戸が開いていた。開けるときにはガラガラと音がするはずなのに、何の物音も聞こえなかった。
 戸の隙間から、影のようにするりと監査部の女性社員が入ってきた。江梨子は彼女のことを「女隠密」と呼んでいるが、まさにその通りの身のこなしだ。
 足音もなく、ハウスの前方を真ん中あたりまで進むと、女隠密は、顔を動かすことなく目だけで出勤した社員の数を確認した。それにつられるようにして、下島も住人の数をかぞえる。
 ──また減っている。
 月曜病だ。土、日と休んだあと、月曜日にハウスに来るのには、かなりの気力が必要なのだ。月曜日になるたびに、出勤する住人の数が減っていく。
「おはようございます」
 女隠密が挨拶した。しかし、応える者は誰もいない。女隠密も、挨拶が返って来るのを期待しているわけではない。
「今週のレポートの課題です」
 能面のような無表情で言葉を継ぐ。
「京都クルミ製作所のこれまでの歴史で、個人的に最も評価する事業、評価できない事業を挙げ、その理由を述べてください」
 住人からはなんの反応もない。女隠密も、なんらかの反応を期待しているわけではない。
「では、よろしくお願いいたします」
 形だけ頭を下げる。
 いつもならそのまま去るところだが、女隠密は一番隅のテーブルに顔を向けた。
「下島さん」
 いきなり名前が呼ばれる。
「いっしょに来てください」
 全員の目がこっちに向いた。下島は息を呑んだ。
 ──今朝のことが、もう監査部に伝わっているのか。
「下島さん、あなた、何をしたんです」
 睨むようにして下島を見ながら江梨子が訊く。
「いや、俺はただ──」
「まあ、いいじゃありませんか」
 勝見が二人の間に割って入った。
「今は、言い争ってるときじゃありません」
 女隠密がこっちを見ている。鉛のようなため息をつくと、下島は立ち上がった。
「大丈夫です。気をしっかり持って」
 勝見が握った拳を振り上げる。
 ──あんなこと、やっぱりやらなきゃよかった。
 後悔しながら下島は歩き出した。そして、江梨子や勝見に内緒で行動するのはもうやめよう、と誓った。
 
 いったいどんな用件ですか、と繰り返したずねたが、五階の第3談話室に着くまで、女隠密はひとことも口を利いてくれなかった。ギロチンハウスを出て五階に上がり、廊下を歩いている間、額から脂汗が流れ落ち、脇の下がべたべたと濡れていくのがわかった。
 女隠密がドアをノックする。「はい」とくぐもった声が返ってくる。
「どうぞ」
 初めて女隠密が口を開いた。
「し、失礼します」
 どもりながら声をかけ、部屋に入る。
 デスクの向こうに、丸子が腰を下ろしていた。いつも通りの陰険陰湿な顔つきでこっちを見ている。
 うながされるまま、デスクの前に置かれたパイプ椅子に腰を下ろす。
 女隠密は、丸子の左手に回り、両手を下腹部の前で組み合わせた姿勢で下島を見下ろした。
「監査部の丸子です」
 わかりきったことを言うと、丸子は細い目をさらに細めた。
「ついさっき、トイレで騒ぎを起こしたそうですね」
「あ、いやいや……」
 下島は首を振った。
「騒ぎではなくて、その……、鈴本部長に少しうかがいたいことがあって──」
「鈴本部長は、あなたに脅されたとおっしゃっているのですがね」
「私が……、部長を、脅した?」
「ええ。根も葉もないことで」
「そんな……」
「西村特任係長へのストーカーまがいの行為と、今回の自分への脅迫を考えれば、あなたを退職させてしかるべきだと、鈴本部長はおっしゃっておられます」
 下島は顔をゆがめた。それはないだろう、と思った。こっちは被害者なのだ。
「部長、私の言うことを聞いてください。今回のヘッドハンティングについては──」
 丸子は右の手のひらをこっちに向けた。黙れ、ということだ。
「一度下された決定が覆ることは、よほどのことがない限りありません。あなたに、それができるだけの証拠がありますか?」
 ぐっ、と下島は詰まった。まだ証拠はない。
 自分は早まったのだと、このときはっきりと気づいた。江梨子や勝見の言うことをちゃんと聞いていればよかったのだ。
 ──俺はもう終わりなのか。
 全身から血の気が引いた。
「下島さん」
 何故か口許に笑みを浮かべながら、丸子が声をかける。
「はい……」
 虚ろな目で見返す。
「あなた、本気でセカンドキャリア戦略室から出たいですか?」
「は──?」
 下島はポカンと口を開いた。今更何を言い出すのだ。
「も、もちろん」
 慌てて答える。
「ならば、まずは、あなた方が何を嗅ぎ回っているのか、包み隠さず教えてください。その上で──」
 デスクに肘をつくと、丸子は、もったいをつけるように、ゆっくりと両手の指を組み合わせた。
「私の指示に従ってください」
「部長の指示に?」
「そうです」
 丸子が顔を突き出す。
「しばらくの間、私の指示通りに動いてください。そうすれば、元のポジションに戻して差し上げます」
 丸子はじっとこっちを見つめている。蛇に睨まれた蛙のように、、身動きができない。
「それは……、その……」
 下島は、空唾を呑み込んだ。喉がカラカラに渇いている。
「つまり……、監査部のスパイになれと……」
「ありていに言えば、まあ、そういうことです」
 丸子が、ひきつったような笑みを浮かべる。
 下島は、助けを求めるように女隠密を見上げた。
 女隠密は、人形のような目でこっちを見下ろしていた。


<次回は8月10日(木)更新予定です>