ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

U 事件は連鎖する

 月曜日の午後──。
 スマホの画面を見ながら、麻里は、世田谷区東松原の住宅地の中を歩いていた。渋谷から井の頭線でわずか八、九分の距離だが、一度も降りたことはなく、土地鑑はまるでない。地図を読むのも苦手なため、なかなかスムーズに目的地に向かえない。
 昼下がりの空は、雲ひとつなく真っ青に晴れ渡っている。日差しは強く、気温は三十度を軽く超えている。傷を縫い合わせるために剃った部分の毛がまだ生えそろっていないので、ウイッグをつけているのだが、その下から汗がにじみ出ているのがわかる。傷跡もズキズキと痛み始めている。
 退院してもしばらくは安静にしているように、と医師からは言われていたのだが、とてもじっとしてはいられなかった。自宅マンションには昨日戻ったばかりだが、故郷の長野から出てきてくれている母に、夜までには帰るから、とだけ告げ、振り切るようにして部屋を出た。真相を確かめずにはいられなかった。
 病院で勝見から、「本人に身に覚えがないことでも、相手が一方的に根に持っていたりすることもあるでしょうし」と言われたとき、麻里は、不意にあることを思い出した。「こっちは忘れているのに、相手だけが一方的に殺意を募らせていく」という言葉も胸に刺さった。もしかしたら、と思い当たることがあった。
 あえぐようにして、麻里は歩いた。喉はカラカラに渇いていたが、飲み物の自動販売機は近くに見当たらない。
 人けのない道を、画面の地図を見ながらゆっくり進む。迷いながらも、目的の場所が迫っているのはわかっていた。
 ──この近くだ。
 スマホから顔を上げた。目の前に、二階建ての瀟洒な家があった。
 正面に、ドアが二つ並んでいる。右側のドアの横の壁に「柴田しばた」という表札、左側のドアの横には「柴田税理士事務所」と書かれたパネルが貼られている。一階の左側半分を、個人の税理士事務所として使っているようだ。
 どちら側のインターホンのボタンを押すか、少しだけ迷ったが、事務所のほうを選んだ。
 気持ちを落ち着かせるために何度か深呼吸を繰り返したあと、ボタンに手を伸ばした。建物の中でチャイムの音が響き、ほどなく〈はい〉と若い女性の声が応える。
「あの、わたくし、西村、と申します。突然申し訳ありません。柴田さんとお話ししたいことがあるのですが」
〈お待ちください〉
 今日訪ねることは、事前に伝えていない。会うことを拒否される可能性もあった。
 しかし、しばらく待たされたあと、ドアが開いた。
 半袖の白いワイシャツに紺のスラックスを身に着けた男性が姿を見せる。身長は百七十センチ足らずで細身。ハンサムではないが、大きな黒い瞳と柔らかな物腰に、真面目で誠実な人柄が表れている。歳は四十歳前後か。
「柴田さん、ですね?」
 確認のため、訊いた。一年半ほど前、一度会ったことはあるのだが、顔はほとんど覚えていない。
「はい」
 麻里にじっと視線を向けたまま柴田が答える。
「西村麻里です。覚えていらっしゃいますか?」
「仕事の話ではないですよね」
「ええ。実は──」
「でしたら、そっちから」
 柴田が、右側のドアを指さす。
「今、開けますから」
 それだけ言って、中に引っ込む。
 ドアが閉まる前に事務所の中を見ると、デスクから身を乗り出すようにして、まだ二十代に見える女性がこっちに顔を向けていた。
 ──あれは奥さんではない。
 柴田の妻にも、同じとき一度会っている。大きなサングラスをかけていたこともあってやはり顔はほとんど思い出せないが、あんなに若いはずはない。事務員だろう。
 左側のドアの前を離れると、数歩移動して、今度は右側のドアの前に立った。カチャ、という鍵が外される音がして、ドアが開いた。柴田が顔を出し、どうぞ、と中を指し示す。事務所とは、建物の中で繋がっているようだ。
 柴田が出してくれたスリッパに履き替え、玄関のすぐ右手にあるリビングに入る。
 広さは十畳ほどあるだろうか。壁際にテレビ。その前に二人掛けのソファ。ローテーブル。テレビと反対側の壁には大きな本棚があり、書籍や雑誌が隙間なく並んでいる。
 柴田は、リビングの奥にあるダイニングスペースまで進んだ。木製の丸テーブルの前で立ち止まり、椅子をひとつ引く。
 そこに座れ、ということだろう。
「失礼します」
 柴田から目を離すことなく、椅子に腰を下ろす。
 柴田は、冷蔵庫の扉を開け、中から麦茶のペットボトルを取り出した。食器棚からグラスを二つ出し、そこに麦茶を注ぐ。
 喉が鳴ったが、目の前に置かれたグラスには手を出さなかった。わずかな隙も見せたくない。
 正面に座り、麦茶にひとくち口をつけると、
「よく私のことを覚えてましたね」
 まず、柴田はそう言った。
「これ」
 麻里が、スーツのポケットから名刺を取り出す。「柴田税理士事務所」の名刺だ。『所長 柴田明博あきひろ』と記されている。その下には、住所と電話・ファックス番号、それにメールアドレス。
「以前いただいた名刺です」
「そんなもの、すぐに捨てられたと思ってました」
「いただいた名刺を捨てることはありません」
「そうですか」
 柴田は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「奥様は、今日は──?」
「妻とは……、離婚しました。もう一年以上前に」
 麻里は眉をひそめた。これは予想していなかった。
「今、どちらにいるか、ご存じですか?」
「いえ」
 小さく首を振る。
「今日は妻に……、いや、未有起みゆきに何か用ですか?」
「柴田さんご夫婦にうかがいたいことがあったのですが」
 柴田は薄く笑った。
「今頃になって、なんでしょう」
「十日ほど前のことですが──、私が襲われたことはご存じですか?」
「襲われた?」
 眉間に皺が寄る。
「いいえ」
「そうですか」
 地方で起きた傷害事件で、人が死んでいるわけではないから、全国的に報道されているわけではない。知らないのはむしろ自然だ。しかし──、
「犯人はあなたなんじゃないですか?」
 麻里は、単刀直入に訊いた。
「は──?」
 柴田は、まず目を大きく見開き、そして細めた。
「何を言ってるんですか、あなた」
「柴田さんでなければ、奥様かもしれません」
 麻里は、バッグからスマホを取り出した。指先で操作してネットニュースを検索し、画面を柴田に向ける。
 スマホを受け取ると、柴田は記事を読み始めた。見る間に表情が険しくなっていく。
「柴田さん」
 麻里がテーブルの上に身を乗り出す。
「あなたと奥さんが会社にいらっしゃったとき、私はほとんどまともに話を聞きませんでした。とんだ言いがかりだと思いました」
 柴田がスマホから顔を上げる。
「あの頃私は、会社を追い出されかけていて……、必死になって戦ってたんです。他のことなんて、考える余裕がなかったんです。だから──」
「私と妻の言うことなど、とてもまともに取り合ってなどいられなかった。そういうことですか?」
「お恥ずかしい話ですが……」
 麻里が唇を噛む。
「もし、まだ奥さんが私に恨みを持っているのだとしたら──」
「そうですね」
 柴田の顔が歪む。
「あなたを襲ったのは、未有起かもしれない。未有起は、精神的に追い詰められていましたから」
「柴田さん。もう一度、最初から全て話していただけませんか? 息子さんの身に何が起きたのか」
「今度は、ちゃんと聞いてくれるということですか?」
「はい」
「それを聞いてどうするんです。あなた、どうして警察に私たちのことを話さないんですか」
「それは……、お話をうかがったあとで説明します」
 柴田は、麻里から目を逸らした。
 大きくひとつ息をつき、目の前の麦茶のグラスに視線を向ける。
 グラスに語りかけるようにして、柴田は話し始めた。


<次回は8月18日(金)更新予定です>