ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

U 事件は連鎖する

 

 日曜日の朝、冷たくなった息子を発見したのは、未有起だった。
 柴田は、前日の朝から、一泊の接待ゴルフに出かけていた。小学六年生の和也かずやは午後から少年野球の練習、未有起は夕方から、学生時代の友人たちとの呑み会に出かけた。未有起は、土曜日の夕食はコンビニの弁当で済ませておくよう和也に言っており、千円を渡していた。
 未有起が帰宅したのは、午後十一時近かった。夫がいないからと、久し振りに羽を伸ばしたのだった。和也の部屋を覗くと、ちゃんとパジャマに着替えて眠っており、呼んでも起きる気配はなかった。午後七時頃、家に電話したとき、和也は「身体がだるい」と言っていた。野球の練習で疲れているのだろうと思い、そのまま寝かせておくことにした。
 そして翌朝──。なかなか起き出してこない和也に業を煮やし、未有起は部屋に行った。そして、横向きに寝ている息子の背中をゆすった。しかし、反応はなかった。息もしていなかった。動転しながらも、救急車を呼んだ。同時に、夫の携帯に電話した。
 解剖の結果、死亡の原因は硬膜下血腫だとわかった。
 頭に強い衝撃を受けたことで、脳の表面にじわじわと出血が生じ、頭蓋骨のすぐ内側で脳を覆っている硬膜との間に血液がたまっていったのだという。頭を打った直後は強い自覚症状が起きない場合があるため、和也の場合も、そんな重傷とは思わず、帰宅したのだと考えられる。その後、おそらく頭痛や吐き気、倦怠感などに襲われ、ベッドに入った。パジャマに着替えたのは、泥だらけのユニフォームのままだと母親に怒られると思ったからだろう。今回の場合は、それが災いした。未有起は、朝まで和也の異変に気づかなかったのだ。
 接待先から戻った柴田は、激しく未有起をなじった。深夜まで子どもをほったらかしにして遊び歩いていなければ、和也は助かっていたかもしれないのだ。
 死後、時間が経過していることもあって、和也がいつどこで怪我をしたのかはわからないままだった。外出先で何か事故に遭ったのか、帰宅してからどこかで転んだのか、それすらもわからない。
 しばらく呆然とした日々を過ごしたあと、未有起は、どこで和也が頭を打ったのかを調べ始めた。自分ばかりが周りから責められることで、未有起は精神的に追い詰められていた。和也の死の本当の原因を突き止め、その責任が誰にあるのかをはっきりさせて、気持ちの負担を少しでも軽くしたかったのかもしれない。
 最初は、少年野球の練習中に事故があったのだと予想した。ボールやバットが頭に当たったのではないか。あるいは打球を追っていて転んで頭を打ったのではないか。そう考えた。だが、コーチも、チームのメンバーも、練習中にそんな事故は起きていないと口を揃えた。
 練習が終わったあと、途中までいっしょに自転車で帰ったという数人の友達に訊いたが、別れるまでは普通にしていたという。事故も起きていないと、ここでも全員が口を揃えた。
 問題は友達と別れたあとだった。普通ならそのまま家に向かうはずだが、この日は、帰っても両親がいないとわかっていたからか、和也は家とは反対方向に走っていったらしい。
 こういうことは、今までにもよくあった。和也は、ひとりで見知らぬ場所に行くのが好きなのだ。その日は、両親ともに留守で、遅くなっても怒られることはない。それで、今まで行ったことのない場所に、探検に向かったのだろう。
 そして、おそらく、そこでなんらかの事故に巻き込まれた。
 子どもが自転車で行ける範囲など限られているが、それでも、東西南北どの方面に向かったのかわからず、どのくらいの時間走っていたのかもわからない。未有起ひとりでの調査は難航を極めた。
 未有起は、野球のユニフォーム姿の和也の写真をプリントし、その下に『この男の子が巻き込まれた事故・事件などをご存じの方はご連絡ください』と書き込んだビラを、街のあちこちで配り歩いた。
 和也が亡くなってから三ヶ月ほど経ったとき、チラシを見たという女性から連絡があった。その女性によると、土曜日の午後六時頃、羽根木公園近くのカフェにいたとき、店の前で、黄色いロードバイクに乗っていた若い女性と野球のユニフォームを着ていた子どもが、出合い頭に衝突したのを目撃したという。自転車は横倒しになり、二人とも車道に倒れた。子どものほうは野球のヘルメットを被っていたが、サイズが大きめだったのか、衝突のショックで脱げ落ちていて、頭をまともにコンクリートに打ちつけたという。どちらかというと女性のほうがスピードを出し過ぎていたように見えたが、女性が一方的に子どもを叱っていた。ただ、事故のあとは二人ともすぐに立ち上がり、普通に走っていった。
 未有起は目撃者の女性と直接会い、ロードバイクの女性の特徴などを訊き出した。そして、警察に行き、事故のことを調べてくれるよう頼んだ。しかし、警察の対応は、満足のいくものではなかった。弁護士に相談しても、今更どうすることもできないと、ほとんど相手にしてもらえなかった。
 未有起は、ロードバイクの女性を探し続けた。土曜日ごとに羽根木公園周辺をうろつき、ビラを配り、ネットの掲示板に女性の特徴を書き込んだ。
 そして、事故から一年近くが過ぎたとき──。あるネットの記事を見たという女性から連絡があった。『輝く女性特集』という記事の中に、黄色いロードバイクに乗った女性の写真が出ていると。
 未有起は、事故を目撃した女性をすぐに訪ね、その写真を見せた。目撃者は、多分この女性だと思う、と証言した。
 未有起と柴田は、二人で「J&Bメディカルケア」社を訪ねた。
 西村麻里は、会社のロビーで面会してくれた。しかし、未有起と柴田の話を、単なるいいがかりだ、とはねつけた。そんな事故のことは覚えていないし、だいたい、その事故が、息子さんが亡くなったことと関係があるのかどうかもわからない。自分は今とても忙しい。これ以上おかしな言いがかりをつけるなら警察を呼ぶ。そう言って、わずか五分足らずで面会を切り上げてしまった。
 未有起は再び警察に行った。息子を殺した犯人がわかったのだ、と訴えた。しかし、やはり取り合ってはもらえなかった。検察官宛てに手紙も書いたが、無視された。
 どうしてもあきらめることができず、未有起はまた会社に向かった。
 しかし、そのとき、麻里はすでに退職していた。


「それで、未有起の心は壊れました」
 苦渋の表情で柴田は言った。
「せっかくあなたを見つけ出したのに、警察も検察も全く取り合ってくれない。しかも、またあなたを見失ってしまった。それが決定的なダメージになったんでしょう。それまでも、精神的にとても不安定で、定期的に心療内科の医師に診てもらってはいたのですが……。それからは、家のことは何もしなくなり、身なりにも気を遣わず、ときどき狂ったように大声を上げたかと思うと、一日中部屋に閉じこもったり……。私は耐えられず、離婚しました。そのあとは、名古屋の実家に戻ったはずですが……」
「離婚されてからも、私を探していたということは──?」
「あるでしょうね」
 柴田がうなずく。
「未有起のご両親は、きちんと治療を受けさせるとおっしゃっていましたから、しばらくの間はおとなしくしていたかもしれませんが……、彼女があのまま、あなたを探すのをあきらめたとは思えません」
 麻里は、身分を隠して生活しているわけではない。どこで暮らしているのか探す方法はあるだろう。しかも、最近、ネットに自分のことが書き込みされていた。それを見れば、今、京都クルミ製作所に勤務していることはわかってしまう。
 ──犯人は、おそらく未有起だ。
 麻里は目を閉じ、ひとつ息をついた。
「どうします? 未有起のことを警察に話しますか?」
「柴田さん」
 真っ直ぐ柴田に視線を向ける。
「未有起さんと連絡は取れますか?」
「未有起と?」
 わずかに首を傾げる。
「今すぐには無理ですが……、実家に連絡すれば、今どこにいるかは教えてもらえると思います」
「では、まず、今回のことが未有起さんの犯行かどうか、本人に確かめてください」
「犯行を認めたら、どうするつもりです」
「警察は、今度の事件を、通り魔の犯行だと考え始めています。私が話さなければ、おそらく未有起さんの名前が容疑者として上がることはありません。二度と私を襲わないと約束していただければ、私も、未有起さんのことは絶対に警察に話しません」
 柴田は眉をひそめた。
「どうしてです?」
「未有起さんが逮捕されたら、私を襲った理由も公になります。自転車の衝突事故と息子さんの死との因果関係を証明するのは不可能だと思いますが、それでも、そんなことが明らかになれば、私は今の仕事が続けられなくなる可能性があります。大きな仕事に手をつけようとしていたところなのに、こんなことで棒に振りたくありません。私を殴ったことで、未有起さんの気持ちもいくらかはおさまったでしょう。犯罪者になって刑務所に入ることを考えれば、これで幕引きにしたほうがお互いのためです」
 そこまで麻里は一気に話した。難しい顔つきで柴田が腕を組む。
「お願いです。未有起さんに連絡して、もし彼女が犯人だったら、そう説得してください」
 しばらくの間、じっと動きを止めていたが、やがて柴田は顔を上げた。
「いいでしょう。やってみます」
「ありがとうございます」
 麻里は頭を下げた。バッグから名刺入れを取り出し、一枚を抜き取って差し出す。
「連絡がついたら、私の携帯にご一報ください。未有起さんとは、一度直接お話しさせていただきたいと思っています。そのこともお伝えください」
「わかりました」
「それから……、未有起さんのお写真をいただけないでしょうか」
「写真、ですか……」
「今度目の前に現れたら、わかるようにしておきたいんです」
「いいでしょう。ただ、私、これから仕事で外に出なくてはなりません。帰ったら顔がはっきりわかるものを選んで、なるべく早くあなたの携帯に送ります。それでいいですか?」
「お願いします」
 麻里は、未有起の身長と体形を訊いた。背は百六三センチで、離婚する直前はガリガリに痩せていたという。体形については、今は変わってしまっているかもしれない。旧姓は田辺たなべで、今はそちらを使って生活している可能性が高い。
 突然訪ねたことを改めて詫び、礼を言って立ち上がったとき──、
「和也に手を合わせていただけませんか?」
 穏やかな声で柴田は言った。
 麻里の返事を待たず、リビングに引き返すと、突き当たりにある襖を引き開ける。
 そこは六畳ほどの和室だった。壁際に仏壇があり、ユニフォーム姿の少年の写真が載っている。仏壇の横には、バットとグローブ。生前、和也が愛用していたものなのだろう。
 少しだけ、麻里は迷った。ここで手を合わせれば、自分が和也の死に関わったのを認めることになってしまう。
 でも、未有起が調べたことがおそらく正しいのだろうと麻里は思い始めていた。この数日間、必死で記憶をたどった。そして、おぼろげながら、事故のことを思い出したのだ。確かに自分は、少年が乗った自転車と衝突したことがあった。
 スリッパを脱いで和室に入り、仏壇の前で正座する。
 笑顔の少年の写真に目を向けたとき、記憶の底から、不意に事故のときの光景が脳裏に甦ってきた。
 脇道から突然、少年が乗った自転車が飛び出してきたのだ。麻里はかなりスピードを出していた。ロードバイクの前輪が、子ども用自転車の横っ腹に追突する。そのショックで、少年が被っていた野球のヘルメットが飛ぶ。少年は、自転車もろとも倒れる。麻里のほうも、ハンドルを捻った瞬間にバランスを崩し、車道に倒れ込む。
 ──危ないじゃないの!
 麻里が大声で叱る。
 ──すいません。
 頭をさすりながら少年があやまる。
 でも、それだけだった。自転車を起こすと、少年はすぐにペダルを漕ぎ始めた。麻里も少年と反対方向に走り出した。あのあと少年が死亡するなど、思いもよらなかった。
 ──少年の両親は、苦しい歳月を過ごしてきたのだ。私のせいで。
 いたたまれない気持ちになりながら仏壇に向かって手を合わせ、亡くなった少年の冥福を祈る。もう二度とロードバイクに乗るのはやめると、麻里は仏前で誓った。
 振り返ると、いつの間にかすぐ後ろに柴田が立ち、涙を拭っていた。その肩が震えている。
 何か声をかけなければ、と思ったとき、パタパタと足音が響いた。
「所長、お電話です!」
 リビングのドアの向こうで声がした。さっき事務所で見た女性だろう。
 柴田の表情が、一瞬、ひきつったように見えた。
「ああ、すぐ行く」
 顔をしかめたまま応える。
 逆に麻里は、電話に救われた気がした。これ以上、ここでどんな態度を取り、何を言ったらいいのかわからなかった。
「では、私はこれで」
 うつむいたまま、麻里は立ち上がった。
 そして、逃げるようにして柴田家をあとにした。


<次回は8月25日(金)更新予定です>