ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

V 諜報戦は激しさを増す

 結局、一睡もできなかった。
 東山区の、白川疎水沿いにあるワンルームマンションの自室──。ベッドから出て、部屋の真ん中に置かれた座卓の前であぐらをかくと、勝見は両手で顔を覆った。
 坂口好美の死が、いまだに信じられない。
 総務部五係の係長だった一年半の間、好美のデスクはずっと隣にあった。地味で無口だが、素直でやさしく、仕事は速く正確だった。その全てが、横領を隠すための芝居だったとは思えない。自殺は納得できないし、他殺だとしたらなんとしても犯人に罪を償わせたい。
 昨夜からずっと、テレビやネットでニュースをチェックしているのだが、詳しい状況はいまだにわからない。はっきりしているのは、好美が、自分の部屋で、首を吊った状態で死んでいるのが見つかったということだけだ。
 おとといの日曜日。勝見は、好美のアパートに行った。築十五年以上は経っていそうな、外壁に汚れが目立つ二階建てで、各階に四つずつ、鉄製のドアが並んでいた。好美の部屋は、歩道から直角に奥に向かって伸びる建物の一階、手前から二番目にあった。
 携帯に電話しても繋がらず、ドアには鍵が掛かり、チャイムボタンを押しても反応はなかった。ドアの真ん中辺りに郵便物を差し込む穴が開いていて、そこからチラシが何枚も突き出していた。今考えると、おとといの時点で、すでに好美は死んでいたのだ。
 あのとき──、と勝見は思い出した。
 ドアの前で身を屈めて、郵便受けをチェックしているときだった。一番手前の部屋から、二十代後半ぐらいに見える女性が出てきた。彼女は、眉をひそめて勝見のほうをうかがいながら去っていった。
 もしかしたら、隣室に異変を感じ、警察に通報したのはあの女性かもしれない。だとしたら、自分のことも警察に話しただろう。
 ということは……。
 ──いずれ警察は、僕のところに来る。
 刑事に連行されていったときの下島の姿が、瞼の裏に浮かんだ。窓という窓から好奇心に目を輝かせた社員たちが見下ろす中、下島は両肩をすぼめ、うつむいたまま、中庭を横切っていった。社員たちは、汚いものでも見るような顔つきで、ひそひそと話し合ったり、鼻で笑ったりしていた。
 冗談じゃない、と思った。あれだけはごめんだ。見世物になるのはまっぴらだ。
 ──では、どうすべきか……。
 しばらくの間、勝見は考えた。そして、自ら警察に出頭するのが一番いいだろうという結論に達した。洗いざらい本当のことを話せばいいのだ。何もしていないのだから、逮捕勾留されることなどないはずだ。
 その前に、隣の部屋の女性に話を聞こうと思い立った。好美の浮気相手について、何かわかるかもしれない。
 時刻はまだ七時前だった。急いで身支度を済ませ、タクシーを使えば、七時半頃には好美のアパートに着ける。隣室の女性がどんな仕事をしているのかはわからないが、まだ出かけてはいないだろうと思った。
 跳ねるようにして立ち上がると、勝見は手早く歯を磨き、パックから直接牛乳を飲みながら着替えを済ませた。そして、脱兎のごとく部屋を飛び出した。

 部屋の前に警察官がいたら困るな、と考えていたのだが、それは杞憂に終わった。アパート周辺にも警察官らしい人影はなく、警察車両と思しき車も停まっていない。事件が起きたことを感じさせるのは、好美の部屋のドアに、まるで封印するかのように貼り付けられた「立入禁止」の黄色いテープだけだ。
 好美の部屋の前から引き返し、手前のドアの前に立つ。
 チャイムボタンを押すと、ほどなく部屋の中で足音が響き、ドアが細く開かれた。チェーンは、しっかりと掛けられている。
 寝ぐせのついた髪をかき上げながら、女性が顔を出した。
「おはようございます」
 勝見がにこやかに挨拶する。
「あなた……」
 日曜日に見た男だとわかったのだろう、思わず、といった感じで女性は顔を引っ込めた。
「怪しいものではありません」
 すかさず、用意してあった名刺を差し出す。
「私、坂口さんが勤めていた会社の同僚でして。どうしても連絡しなければいけないことがあったのですが、電話が繋がらなくて……。それで、心配して日曜日にここを訪ねたんです」
「京都クルミ製作所」の名刺を見て、女性はいくらか安心したようだった。クルミブランドは、京都では水戸黄門の印籠のような威力を発揮する。もっとも、会社名の下に記された「セカンドキャリア戦略室」の意味を知っていたら、反応はまた違ったかもしれないが──。
「私……、あなたのことを、警察に──」
 名刺と勝見の顔を見比べながら、女性が言いかける。
「はい。わかっています」
 勝見が笑顔で手を上げる。
「あのときの状況では、不審者だと思われても仕方ありません。このあとすぐ、警察に出頭するつもりでいます。殺人犯だと思われてると困りますから」
 勝見の涼やかな笑顔につられたのか、女性の口許が微かにほころんだ。
 面と向かって女性と話をして悪印象を持たれたことは、これまで一度もない。あとひと息だ、と勝見は思った。
北村きたむらさん、ですよね」
 ドアの横にある表札を横目で確認しながら、親しげに呼びかける。
「はい」
「警察に行く前に、ちょっとだけお話をうかがいたいんです。会社に報告しないといけないもんですから。このままで結構ですから、お答えいただけませんか?」
「何をでしょう」
 北村の顔に、わずかに警戒の色が浮かんだ。
「大したことじゃありません。多分、もう警察にもお話しになったことばかりだと思います」
 笑顔のまま続ける。
「坂口さんの部屋の様子がおかしいと通報したのは、あなたですか?」
「ええ」
 北村がうなずく。
「どうして隣の部屋の異変に気づいたんです?」
「それは……、あなたがきっかけといえばきっかけなんですけど」
「私が?」
「私、隣の部屋を気にかけたことって、なかったんですよ。ここにはこの春から住み始めたばかりで……、坂口さんとは、引っ越しの挨拶のとき話したくらいで、そのあと顔を合わせたのは、一度か二度だけですし」
「そうなんですか」
「私、看護師なんです。夜勤が多くて、生活が不規則なこともあって、隣の人がどんな生活しているか、気にしたことはなかったんですけど……。おととい、あなた、郵便受けを見ていたでしょう? チラシがずいぶんたまってたから……、それで、坂口さんがもう何日も留守にしてるんやって気づいて……。けど、部屋の明かりはずっと点いてるし、エアコンの室外機も回りっぱなしやったから……」
「明かりとエアコンが……」
「そうなんです。ここからだとわからないんですけど、反対側は物干し場になっていて──」
 話しながら首を後ろに捻り、顔を部屋の奥に向ける。
「そこからやと、奥の部屋に明かりが点いてるのがわかるんです。エアコンの室外機の音もずっとしていました。それで、昨日の昼過ぎに夜勤明けで帰ってきたとき、確かめたら、やっぱりまだ明かりもエアコンも点いていて……、けど、郵便受けのチラシは増えていたんで……、それで、坂口さん、もしかしたら部屋の中で倒れて、身動きができない状態なんやないかと思って、管理会社に電話したんです」
「なるほど……」
 好美が部屋で倒れている可能性を考えたのは、さすが看護師というべきか。
「管理会社の方はすぐに飛んできてくれて……。ここを借りるとき保証人になってくれたのがお兄さんだとかで、そのお兄さんに連絡して、承諾を得てから、合鍵で部屋に入ったんです。もし部屋で倒れていたりしたら何か役に立つことがあるかもしれないと思って、私も、管理会社の方の後ろから玄関に入ったんですけど……」
 そこで北村は、苦し気に顔を歪めた。
「玄関のすぐ先に短い廊下があるんですけど、その突き当りのドアが半開きになっていて……、ドアに引っかけた紐で女の人が首を吊っているのが見えて……。ひと目で、死んでから何日も経っているとわかりました」
 映画の中のワンシーンで、首を吊った状態で数日間放っておかれた死体の映像が出てきたことがある。顔は青黒く、舌が飛び出し、首はぐにょりと伸びていた。
 不意に吐き気がこみ上げ、勝見は顔をしかめた。
「あの……、ドアに引っかけた紐で首を吊っていた、というのは……」
「ドアノブに紐の先が結んであって、その紐がドアの上から反対側に回されてて、それを首に回して……」
 ──そういうことか。
 ということは、自殺なのだろうか。しかし、やはり不倫相手のことが気になる。
「坂口さんの部屋に誰か来ていたことって、ありませんか?」
「それは、まあ……、あったと思いますけど……」
「男ですか?」
「まあ、そうやと思いますけど」
「姿を見たことは?」
「ないです」
 きっぱりと北村は言った。
「あの……、これ、なんの調査ですか? 私、坂口さんのプライベートなことまでは……」
「あ、すいません」
 勝見は素直にあやまった。
 部屋に不倫相手が来ていたのは確かなようだ。だとしたら、その男が自殺に見せかけて好美を殺した可能性もあるのではないか。
「あの……、もういいですか?」
 北村の視線が険しくなっている。本当に会社の用事で来たのか、疑い始めているのかもしれない。
「ありがとうございました。私のことは警察に話してくださって構いませんから」
 勝見は深々とお辞儀した。バタン、と音を立てて鼻先でドアが閉められる。
 勝見は踵を返した。歩きながら、他殺を自殺に見せかける方法について考えを巡らせる。
 ──ないことはない。
 以前、テレビドラマで見た方法が頭に浮かんだ。しかし、それができる人間は限られている。
 ひとりの男の顔が頭に浮かんだ。
 スマホを取り出し、佐々木圭子の番号を呼び出す。
〈あら〜、勝見君、どうしたの、こんなに朝早くから〜〉
 いきなり圭子が甘えた声を出す。金曜日の夜の痴態が一瞬脳裏を過ったが、すぐにその映像を追い払う。
〈ねえねえ、坂口さんが亡くなったって、知ってる?〉
「ええ。実はそのことなんですけど──」
 ある人物と好美との接点について至急調べてほしい、と勝見は頼んだ。自分の推理通りだったら、どこかで二人は関わりを持っているはずだ。
 その人物が好美の不倫相手だったのか、と圭子は訊いてきたが、まだわからない、とだけ答えた。
 ──さて……。
 いったんスマホを切ると、勝見は、地元の警察署の場所を検索した。出頭するのは気が重いが、ぐずぐずしていてもしょうがない。
 覚悟を決めると、勝見は、警察署に向かって歩き出した。


<次回は9月8日(金)更新予定です>