ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

V 諜報戦は激しさを増す

 娘たちの朝食の食べかすが残るテーブルで、下島は盛大なため息をついた。
 今朝もまた、二人の娘はひとことも口を利いてくれなかった。
 学校はすでに夏休みに入っているが、ハンドボール部と吹奏楽部にそれぞれ所属していて午前中に練習があるため、二人ともいつもとほとんど変わらない時間に起きてきた。そして、女房が用意したトーストとサラダを黙々と頬張り、向かいの椅子に腰かけている下島にはまるで目を向けることなく出かけて行った。
 ちなみに、下島に食事は用意されていない。自分でインスタントコーヒーを淹れ、新聞に目を通すフリをしながら、女房の様子をうかがった。娘たちの皿を片付けたあと、女房は無言で洗面所に入った。おそらく洗濯をするのだろう。
 食欲はなかった。コーヒーを飲み干し、着替えをするために立ち上がる。
 そのとき、テーブルに置いていたスマホが着信音を鳴らした。
 画面に出た番号を見て、下島は目を見開いた。振り返り、まだ女房が洗面所にいることを確認しながら、急いで寝室に戻る。
 ドアを閉めると、下島はスマホを耳にあてた。
家長いえながです〉
 落ち着いた声音で相手が名乗る。女隠密だ。昨日第3談話室に連行されたとき、下島は、初めて彼女の名前を知った。
〈今、あなたの家の前にいます。SDカードを持ってきてください〉
「家の前!?」
〈はい。すぐに来てください〉
 電話が切れる。
 下島は、慌ててパジャマを脱ぎ捨て、Tシャツと短パンを身に着けた。クローゼットの扉を開け、昨日着ていたスーツのポケットから、SDカードを取り出す。公園での会議を録音したデータが入ったものだ。
 本当は昨夜のうちに渡す手はずだったのだが、坂口好美急死の一報が入り、監査部は対応に追われたらしい。それにしても、まさか家長がここまでやって来るとは思わなかった。
 寝室を出て廊下を玄関に向かう。バタバタと大きな足音を立てて走る下島を、何事だ、という顔で女房が睨みつける。愛想笑いを返しながら玄関のドアを開け、外に飛び出す。
 道路を隔てて反対車線に、紺色のミニクーペが停まっていた。門扉を開け、小走りに道路を横断する。運転席の窓が開き、手が差し出された。
「おはようございます」
 挨拶しながら、その手のひらにSDカードを載せる。
 家長はポーカーフェイスだ。無言のまま前に向き直ったと思うと、すぐに車を発進させた。
 ──誰も俺と口を利いてくれないのか……。
 ひとり残された下島は、今日何度目かの盛大なため息をついた。


 母親が作ってくれた食事に半分ほど手をつけたところで、麻里は箸を置いた。
 焼鮭に煮物、漬物、みそ汁にごはんという旅館の朝食のようなメニューが、普段はヨーグルトとコーヒーしか摂らない麻里には重過ぎるせいもあるが、それより何より、速射砲のように話しかけてくる母親が鬱陶しかった。
 もう仕事を辞めて結婚を考えたらどうだ、というのが話の趣旨で、そこに、実はいいお見合話があるのだとか、ひとり娘のお前にはできれば実家に帰ってきてほしいとか、今住んでいる家を二世帯住宅に建て替えられるぐらいの蓄えはあるとか、会社を定年退職してからお父さんがめっきり老け込んだとか、いろんな枝葉がくっついてくる。最初はいちいち反論していたが、元々こっちの言うことなど聞く気はないから、話は平行線のままだ。とにかく疲れる。
 もう食べないの──? と不満げに言う母親を無視して立ち上がり、八畳ほどのリビングを通り抜けると、麻里は自分の寝室に入った。ドアを閉めてもまだ、せっかく作ったのにもったいない、という母親の声が聞こえてくる。うんざりだ。
 ベッドに寝転がり、目を閉じる。
 そのときだった。
 ──そうだ、会社行こう。
 不意に、頭の中で、テレビコマーシャルのナレーションのような声が聞こえた。
 ここにいたら、母親の言葉攻撃にさらされるだけだ。会社には週の後半ぐらいから出ると伝えてあるが、頭の傷は、もうほとんど問題ない。突然亡くなった坂口好美のことも気になる。
 ベッドから起き上がると、麻里は窓際のデスクに歩み寄り、スマホを取り上げた。出社することを、人事部長の青柳と監査部長の丸子に連絡しておこうと思った。
 スマホの待ち受け画面は、いつでも確認できるように、柴田の元妻の未有起の顔写真にしてある。昨夜、柴田から送られてきたものだ。
 息子を亡くす前に撮ったものなのだろう、写真の未有起は微笑んでいる。特に美人というわけではないが、ぽっちゃりしたふくよかな頬と、大きな目が印象的な、愛らしい顔をしている。彼女が暴行犯だとは、にわかには信じられない。
 未有起とはまだ連絡がついていないという。柴田は、なるべく早く居所を見つけ出してきちんと話をするから、もう少しだけ待ってほしいと言っていた。とりあえずその言葉を信じるしかない。
 大きくひとつ息をつき、スマホを操作する。
 まず青柳に、次に丸子に電話した。二人とも、まだ無理しなくてもいい、と言ってくれたが、今日はとりあえず午前中だけ顔を出しますから、と伝えた。
 丁寧に化粧し、スーツに着替えると、麻里は寝室のドアを開けた。
 驚く母親に向かって、今日から会社に出ることになったから、と告げる。
「私はもう大丈夫だから。それよりお父さんがひとりきりで困ってるだろうから、今日実家に帰ってあげて」
「何言ってるの。怪我はまだ治ってないし、犯人も捕まってないんだから──」
「大丈夫」
 きっぱりと麻里は言った。そして、合鍵は郵便受けに入れておいてくれたらいいから、とだけ言い置き、さっさと玄関に向かった。
「今までありがとう」
 後ろからついてきた母親に向かって頭を下げる。心配をかけたのは事実だし、面倒も見てもらった。その点は感謝している。
「でも、本当にもう大丈夫だから。家に帰って」
 それだけ言うと、おろおろとした様子の母親を残して、麻里は部屋を出た。

 出勤するのは十二日振りだった。
 ただ、もう何ヶ月も会社には来ていないような気がした。それだけ、柴田夫妻の問題が重くのしかかっていた。ちゃんと仕事に戻れるかどうか、不安が募る。
 ロビーや廊下ですれ違う社員はみんな、驚いたような目でこっちを見た。麻里が廊下を歩いていると、向こうから来た社員が、素早く両脇に寄って道を開けてくれる。重役にでもなったような気分だ。エレベーターに乗り込んだときも、先に乗っていた社員たちが、さっと壁際に寄った。誰も目を合わせようとしない。
 全社員から嫌われているのはなんとなくわかっていたが、ここまでされるとさすがに腹が立つ。それでも、ポーカーフェイスは崩さない。怒りを顔に出したら負けだ。
 麻里は、監査部がある五階に個室を与えられていたが、その前に、人事部がある三階でエレベーターを降りた。リストラに関して全権が与えられているとはいえ、麻里は一応人事部の所属だ。上司には挨拶しておかなければならない。
 人事部に向かって歩き出そうとしたとき、ふと、廊下の先から歩いてくる女子社員が目に留まった。
 彼女も麻里に気づいた。慌てたように顔を伏せる。好んで麻里と目を合わせようという社員はいないから、この反応は理解できないではないが──、何かが引っかかった。ちょっとした違和感のようなものが胸に湧いた。
 リストラ社員を選ぶために、麻里は社員全員のプロフィールに目を通している。もちろん、顔写真も見ている。しかし、彼女の顔には覚えがない。ということは、新しく雇った契約社員かパートなのだろう。
 このフロアには、人事部の他に総務部がある。人事部の所属なら、直接話したことはなくても、契約やパートを含めて全員の顔は知っている。つまり、彼女は総務部の所属ということだ。
 すれ違うとき、彼女はさらに顔を伏せた。違和感が増した。
 まさか、とは思ったが、念のためスーツのポケットからスマホを取り出した。待ち受け画面に目を落とす。
 ──違う。
 別人、ということだけは確かだった。今見た女性は、写真のようにぽっちゃりしておらず、身長も、柴田から聞いていた163センチより低いように見える。未有起ではない。
 ──では、なんだろう。
 彼女の後ろ姿を目で追う。違和感の正体はわからない。
 ──気のせいだろうか。
 神経質になり過ぎているのかもしれない、と思った。
 彼女の姿が給湯室の中に消えるのを見ると、麻里は歩き出した。


<次回は9月15日(金)更新予定です>