ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

V 諜報戦は激しさを増す

 正午をわずかに過ぎたとき、着信音が鳴った。
 パソコンのキーボードを叩いていた指を止めると、麻里は、手を伸ばしてデスクからスマホを取り上げた。
 麻里が五階に与えられている個室は、元は「第1談話室」として、監査部の取り調べのために使われていた部屋だ。六畳足らずの広さで、窓はなく、デスクがひとつ壁際にぽつんと置かれているだけ。殺風景にもほどがあるが、誰にも邪魔されずに仕事に集中することはできる。
「西村です」
 麻里の声が、閉ざされた空間にこだまする。
〈柴田です〉
「ああ、はい……」
 スマホを持つ手に、少しだけ力が入った。
〈今、話しても大丈夫ですか?〉
 大丈夫です、と麻里が答える。
〈ようやく未有起と連絡が取れました〉
「そうですか……。でも、ずいぶん時間がかかりましたね」
 柴田を訪ねたのが月曜日、今日は木曜日だ。三日かかっている。その間、麻里はずっと、緊張しながら連絡を待っていた。
〈すみません〉
 掠れた声で柴田があやまる。
〈事件を起こしたあと、未有起は身を隠していたようで……、その間は、誰からの電話にも出なかったようです。私からのメールを見て、さっき連絡をくれたのですが……〉
 そこで柴田は、わずかに間を置いた。
〈あなたを襲ったのは、やはり未有起でした。本人が認めました〉
「そうですか」
 椅子の背にもたれ、小さくひとつ息をつく。
〈未有起は、とても後悔しています。あなたに会ってお詫びしたいと言っています〉
「私も、一度お会いしたいと思っています」
〈未有起は、逮捕されるのをとても怖れています。あなたと会う約束をして、そのとき警察もいっしょに来るのではないかと──〉
「そんなだまし討ちみたいなことは、絶対にしません。この前お話しした通り、今度の件については、これ以上騒ぎにしたくないんです。柴田さんたちのことは、誰にも話しておりません」
〈そうですか。安心しました〉
 柴田の声に安堵が混じる。
「で、未有起さんとは、いつお会いできるのでしょう」
〈土曜日の午後はいかがでしょう。できれば、私の家までご足労いただきたいのですが〉
「柴田さんの家、ですか?」
〈ええ。未有起がそうしてほしいと言っています。和也の遺影の前で話がしたいと〉
 ──なるほど……。
 麻里は唇を噛んだ。
 この前の柴田と同じだ。きっと未有起は、息子の遺影に向かって麻里に手を合わせてほしいのだろう。その姿を見て、気持ちに区切りをつけたいのかもしれない。親とはそういうものなのだろうか。
 どうすべきか、麻里は迷った。自分の姿を見た途端、突然未有起が逆上し、襲いかかってくる可能性もゼロではない。
〈当日は、未有起のご両親も付き添って来てくださいます。彼女、まだ精神的に不安定なので〉
「ご両親は、事件のことをご存じなんですか?」
〈私が話しました。ご両親は、自分たちも西村さんに謝罪したいとおっしゃっています〉
「そうですか」
 柴田に加えて両親が側にいてくれるのなら、未有起も無茶なことはできないだろう。
「わかりました」
 麻里は決断した。
「では、土曜の午後に。よろしくお願いします」
 これでようやく、頭の痛い問題がひとつ片付く。警察は捜査を続けるだろうが、犯人は見つけられないだろう。それでいい。
 スマホをデスクに置くと、麻里は、再びパソコンのキーボードに手をかけた。しかし、頭の中でまだ見ぬ未有起の影がちらつき、集中できそうにない。
 ちょうど昼食どきだった。気分転換をしようと思った。パソコンを切ると、麻里は立ち上がった。
 財布とスマホだけを手にして、部屋を出る。ドアに鍵をかけ、廊下をエレベーターに向かう。
 廊下の窓から、ギロチンハウスが見下ろせた。
 ──あれは……。
 麻里は立ち止まった。中庭で榊江梨子がスマホを操作していた。
 次の瞬間、麻里のスマホが着信音を鳴らした。
 ぎょっとしながら、手にしているスマホの画面を見る。知らない数字が並んでいた。
 もう一度中庭を見下ろす。江梨子がスマホを耳にあてている。偶然とは思えない。
「はい」
 江梨子に視線を向けたまま応える。
〈こんにちは。榊です〉
 江梨子の口が動くのが見えた。
「どうしてこの番号がわかったんですか」
〈ある人から教えてもらいました〉
「ある人──?」
〈今夜、会っていただけませんか? 大事なお話があります〉
「また、あなたたちを陥れたっていう犯人捜しですか?」
 今はそんなことに付き合っている場合ではない。
〈違います〉
 しかし、江梨子はきっぱりと否定した。
〈もっと大事なことです。この会社の将来を変えてしまうような重要な問題についての話です〉
 麻里は、眉をひそめた。ギロチンハウスに送られたダメ社員が、いったい何を言っているのだ。
〈とにかく、話だけでも聞いてください。そのあと、あなたがどういう行動をとっても文句は言いません。私たちを首にするのなら、そうしてもらって構いませんから〉
 ──自分たちの首をかけても、私と話がしたい?
「いったい、どんな話です」
〈それは、ここでは言えません〉
「ここでは──とは、社内では、という意味ですか? それとも、ギロチンハウスの前では言えないと?」
 江梨子が顔を上げた。麻里に気づき、身体の向きを変える。
〈社内では、という意味です。それに、電話でできるような簡単な話ではありません〉
 上を向いたまま答える。二人の視線がぶつかる。
 江梨子は、瞬きをすることもなく、じっとこっちを見つめている。離れてはいるが、その表情には岩のように固い決意が見て取れる。
 江梨子のことは、少しだけだが気になっていた。病院に面会に来たことを丸子に報告したとき、いったいどんな話をしたのか、厳しく問い詰められたからだ。
 丸子は、江梨子を警戒しているように見えた。もしかしたら、それが「この会社の将来を変えてしまうような重要な問題」と関係しているのかもしれない。
「でも、どうして私と話したいんですか?」
 それがわからない。
「私は、この会社に入ってまだ一年ちょっとしか経っていないんですよ」
〈あなたがキーパーソンなんです〉
「キーパーソン?」
〈詳しいことは今夜話します〉
 これではらちが明かない。
「今日でなければだめなんですか?」
〈急で申し訳ありません。どうしても今夜、お話ししたいのですが〉
 麻里はそこで口を閉ざした。そのまましばらく考える。江梨子も黙ったまま返事を待っている。
「わかりました」
 結局麻里は了承した。警戒する気持ちもあったが、好奇心のほうが勝った。おかしな話になったらすぐに席を立てばいい。
〈ありがとうございます〉
 江梨子が頭を下げる。
「ひとつだけ言っておきます。何を私に期待しているのか知りませんが、話の内容次第では、あなたたちのことを監査部に報告します。いいですね?」
〈構いません〉
 すぐに答えが返ってくる。決意は本物のようだ。
 待ち合わせ時間と場所を決めると、麻里は電話を切った。
 何事もなかったかのように、江梨子が歩き出す。その姿が中庭から消えるまで、麻里は窓際に立ちつくしていた。その間、今の江梨子との話を丸子部長に報告するべきかどうか考えた。
 ──報告するかどうか……、それは話の内容次第だな。
 そう決めると、麻里も廊下を歩き始めた。


10

 京阪電鉄祇園四条駅の改札口を出たところで、勝見が待っていた。時刻は、約束の午後六時半ちょうど。
 麻里の姿を見つけると、勝見は満面の笑みで、やあ、というように手を上げた。まるでカップルの待ち合わせのようだ。
「すいません、忙しいところ」
 言いながら、ぺこりと頭を下げる。
「江梨子さんと下島さんは、すぐそこのカラオケボックスで、麻里さんが来るのを待ってます」
 ──麻里さん……。
 麻里は、勝見に向かって目を細めた。名前で呼ばれるほど親しくはない。
 しかし、まあ、それはいい。
「カラオケボックスに行くんですか?」
「普段は、作戦会議は会社の近くの公園でするんですけどね。今日は麻里さんに来てもらうってことで、特別です。個室だし、音も漏れないし……、秘密の話し合いにはもってこいですよ」
 ──会社の将来を変えてしまうほど重要な話し合いを、カラオケボックスでするというのか?
「どうかしました?」
 キョトンとした顔で、勝見が麻里を見る。
「いえ。なんでもありません。案内してください」
「はい」
 勝見が身体の向きを変える。
 あとについて歩き出しながら、麻里は、あることをふと思い出した。総務部の女子社員のことだ。いまだに何かが引っかかっていた。勝見は元総務部だから、彼女のことを知っているかもしれない。
「あの」
 声をかけると、
「なんですか?」
 半歩前を歩いていた勝見が振り返った。
「総務部に、この何ヶ月かの間に新しく配属された社員って、いませんか? 多分、パートか契約社員だと思うんですけど」
「ああ、それなら、厚子あつこさんじゃないですかね。辞めた好美さんのかわりに、五係に入ったパートさんです」
 ──アツコ……。やはり未有起ではない。
 それにしても、と麻里は思った。勝見は、女性はみんな、苗字ではなく名前で呼ぶと決めているのだろうか。
「厚子さんが、何か?」
 訝しげな表情で、勝見が訊く。
 そう言われても、いったい彼女の何が引っかかっているのか、いまだにわからない。どこかで会っているような気もするのだが、その記憶は遠くおぼろげだ。
 彼女はどんな人か、と麻里はたずねた。無口だが、真面目で、仕事もきちんとしている、と勝見が答える。
「ただ、彼女が五係に入って一ヶ月ぐらいで、僕はギロチンハウスに異動になっちゃったんで、実は、あんまりよくは知らないんですけどね」
「そうなんですか……」
 では仕方がない。
「彼女のことが知りたいんなら、調べておきましょうか?」
「あなたが?」
 麻里は驚いて勝見の顔を見た。
「調べられるんですか?」
「はい。今日来てもらったお礼に、麻里さんの名前は出さずに調べてもらいますよ。履歴書の内容ぐらいなら、明日にでもお知らせできると思いますけど」
 人事部か監査部に頼むこともできるが、そのときには、調べる理由をたずねられるだろう。適当な理由をでっちあげることはできるが、いらぬ詮索をされる恐れもある。できればそれは避けたい。
「でも、そんなこと、本当にできるんですか?」
「大丈夫。任せてください」
 自信たっぷりな態度で言うと、勝見は、わかったことは麻里のメールアドレス宛に送ると約束した。
 江梨子たちは、電話番号だけでなく、自分のメールアドレスもすでに知っているのだ。いったいどこから漏れたのだろうと麻里は思った。江梨子たちのバックには、それなりに大物がついているのかもしれない。
 
 カラオケボックスは、駅を出て五分ほどのところにあった。
 個室では、下島が「いとしのエリー」を熱唱していた。


<次回は10月6日(金)更新予定です>