ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

V 諜報戦は激しさを増す

11

「よく来てくれました」
 部屋に入ると、まず江梨子が頭を下げた。
 カラオケを途中で切られてしまった下島は、マイクを握ったまま、照れくさそうにお辞儀した。
「ささ、どうぞどうぞ」
 勝見が、江梨子の対面のソファを勧める。
「麻里さんも、ビールでいいですか?」
 壁に付いている内線用の受話器を取り上げながら、勝見が訊いた。江梨子と下島の前には、すでに生ビールのジョッキが並んでいる。
「いえ、結構です。話が終わったらすぐに帰りますから」
「じゃあ、アイスコーヒーでも」
 麻里の返事を待つことなく、勝見は、生ビールとアイスコーヒーをひとつずつオーダーした。
「前置きはいいですから、すぐに本題に入ってください」
 麻里がうながす。
「はい、わかりました。では、単刀直入に」
 言いながら、江梨子はテーブルの上に身を乗り出した。勝見と下島も、真っ直ぐに麻里を見つめてくる。
「あなたが持っている監査部の入室カードを、私たちにください」
「はあ?」
 麻里は驚きに目を見開いた。
「何をバカなことを……」
 本社五階の監査部へは、カードキーがなければ入れないようになっている。麻里は人事部所属だが、監査部への入室も許可されていた。当然カードキーも持っている。
「月曜日になったら、カードが紛失していることを届け出てください。隠しておいてほしいのは、土日の間だけです」
「つまり、休日で誰もいないときを見計らって、監査部の部屋に入りたいと──」
「そうです」
「いったい、何をするつもりです」
「丸子部長のパソコンのハードディスクを、丸ごとコピーします」
「ハードディスクをコピーって……、クローンを作るということですか?」
 HDDクローンは、究極のバックアップシステムと呼ばれる。パソコンに保存してあるデータを、別のハードディスクに丸ごとコピーしてしまおうというのだ。専用ソフトがあれば、作業自体は簡単にできるが──。
「でも、全部コピーするとなると、かなり時間がかかるでしょう? 最低でも三時間や四時間は必要になると思いますが」
「ですから、部屋に誰もいない休日に決行するしかないんです。平日でも深夜ならできないことはないですが、警備員に見つかったら即警察行きですからね。土日の日中なら、休日出勤してると思って、見逃してくれることもあるでしょう?」
「そんなことまでして、いったい丸子部長のパソコンから何を盗みたいんです」
「裏帳簿です」
「裏、帳簿?」
「はい。表に出てこない金がどのくらいの額になるのか、それを見ればわかります。胡桃沢一族の不正を暴くことができるんです」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 慌てて麻里は止めた。
「いったいなんの話です。胡桃沢一族の不正?」
「京都クルミ製作所は、創業者である胡桃沢の一族が、ずっと社長を務めてきました」
「ええ。それは知ってます」
「その胡桃沢一族に、これまで、かなりの額の裏金が渡っていると思われます」
 ここからは、ついこの間まで役員だった立浪麗子から聞いたことだが、と断わってから、江梨子は続けた。
 ことの始まりは、バブル時代らしい。当時の社長の妻が四条通に高級ブティックを開くことになり、その運転資金に充てるため経理操作が行なわれた。上場企業である京都クルミ製作所の本社は別として、子会社のほとんどは胡桃沢一族が直接経営している。そこから金を引っ張ってくることは簡単だったらしい。
 最初のうちは、支払われるのは年に数千万円程度だったという。しかしその後、代々の社長が個人的にFX(外国為替証拠金取引)を行なうようになると、使われる裏金の額は、年に数億の単位に跳ね上がった。取引で儲けたときは社長個人の懐に入り、損失を出したときは裏金から補てんされた。平均すると、代々の社長は、年に数億円の損失を会社に与えていた可能性があるという。
 損失額がかさみ、裏金のやりくりにも窮して、不正経理の実態をそれ以上隠しておけなくなったとき、先々代の社長は荒業に打って出た。大規模なリストラを断行したのだ。
「それが、五年前の大規模リストラだったんです」
 ──社長の不正を隠すためのリストラ?
 江梨子の言葉に眉をひそめたとき──、インターホンから、〈生ビールとアイスコーヒーをお持ちしました〉という、のんびりした店員の声が響いた。張りつめていた部屋の空気が弛んだ。
 店員がテーブルに飲み物を置くと、麻里は、すぐにアイスコーヒーに手を伸ばした。やけに喉が渇いていた。
「当時は、会社の事業自体も赤字でした」
 店員が部屋から出るのを見届けてから、江梨子が続ける。
「だから、不正隠しのためだけにリストラをしたわけではありません。子会社の売却や社員の削減は避けられなかったと思います。胡桃沢とその取り巻きたちは、子会社のいくつかを売却したり統合したり、社員を大量に解雇したりしました。そうやって、お金の動きを複雑にしておいて、そのどさくさに紛れて、社長個人の損失分をうやむやにしてしまったんです」
 その後、赤字経営の責任を取って先々代の社長は退陣。初めて胡桃沢一族ではない役員が社長に就任する。新社長は会社の体質を変えるべく、次々に改革を実行した。立浪麗子を初の女性役員に抜擢したのもその社長だ。
 ところが、すぐに胡桃沢派の逆襲が始まる。守旧派がじりじりと実権を握り、新社長はわずか三年で退任に追い込まれる。
 新たに社長に就任したのが、前社長の長男だった。
「そいつは、口はうまいけど、ひどい放蕩息子のようです。父親と同じようにFXで多額の損失を出しただけじゃなく、とんだギャンブル狂らしくて、海外のカジノで何億も負けたって噂もあるらしいです」
「嘘でしょ」
 麻里の面接のとき、胡桃沢は、新しい時代の人材活用法について熱く語っていた。この社長の下なら思い切り働けると思って就職を決めたのに──。
「信じられないのも無理はありません。あの社長、外ヅラはやたらにいいですから。でも、そんなの信じてはだめです。今度のリストラだって、裏の目的は、自分の損失を隠すためなんですから。父親のときうまくいったもんだから、同じようにやろうと考えたんでしょう。そのために、わずかに残っていた子会社は売却され、百数十人の社員が退職させられてるんです」
 麻里は、空唾を呑み込んだ。
「もし、それが事実なら──」
「事実です」
 間髪入れず江梨子が答える。
「では、事実だとして──、これまで誰も異議を唱えなかったんですか?」
「異議を唱えた者は、立浪さんを含めて、全員粛清されてしまいました。それに、五年前のリストラのときの人事部長ですが──」
「五年前の、人事部長?」
「ええ。彼は元々経理畑の人間で、子会社の売却やリストラに関わる金の流れに不自然なところを見つけたようです。彼は、会社の不正に気づいた。しかし、もしそれを公にしてしまえば、大きなスキャンダルになり、最悪の場合、元々多額の赤字を抱えていた会社は倒産しかねない。そうなったら、大勢の社員が路頭に迷うことになる。彼は、社会正義と会社を存続させることの間で板挟みになって、その挙句に鬱病になり……、会社を去りました」
 先のリストラのとき、人事部長が精神を病んで退社したことは聞いていた。だから、自分のようにしがらみのない外部の人間にリストラを任せたのだと、胡桃沢社長は話していた。
「胡桃沢があなたに目をつけたのは、仕事ができるからという理由の他に、あなたなら、経理の不正を見抜くことはできないとわかっていたからです」
 麻里は唇を噛んだ。
 江梨子の言っていることが全て本当なら、自分は胡桃沢の都合のいいように利用されていることになる。
「丸子部長は──、そのことは、もちろん全部知っているんですね?」
「前のリストラのとき、経理部門の責任者だったのが丸子です。今の経理部長は、丸子の手下のような奴です。今回のリストラと部署の再編については、実質的には丸子が全権を委任されているといっていいでしょう。あなたは……、おそらくどこかの時点で切り捨てられると思います」
 麻里はソファにもたれ、腕を組んだ。
 にわかには信じられない話だ。しかし、江梨子が嘘を言っているとは思えない。ただ、だからといって、カードキーを渡してしまうのは、自分にとってリスクが大き過ぎる。
「もし監査部に忍び込んだことがバレたら、その責任は全部私が負います」
 こちらの気持ちを見透かしたかのように、江梨子は言った。
「明日の午後五時十分前──、第1談話室に鍵をかけずに、トイレに行ってください。あなたがいない間に、私が部屋に入って、カードを盗み出します。私が捕まったら、そのことをそのまま話します。あなたは、うっかり鍵をかけ忘れたと言えばいいんです。ここで私たちと会ったことは、もちろん誰にも話す必要はありません」
「その裏帳簿というのは、本当に存在するんですか?」
「はい」
 江梨子はうなずいた。
「今の社長になってからのものが、丸子のパソコンに保存されているのは間違いありません。五年前のものも、丸子のことですから、破棄せず保存していると思います。一度外部からアクセスを試みたのですが、パスワードがわからず、裏帳簿と思われるファイルは開けませんでした」
「パスワードがわからないと、ファイルは開けない」
「ええ。でも、これまでの調査で、地下アイドルの名前と生年月日を組み合わせたものだということはわかってるんです」
「地下アイドル?」
「あんな顔して、丸子は地下アイドル好きなんですよ」
 勝見が口を挟んだ。
「それも、『姫君シスターズ』っていう、かなりマニアックなグループの追っかけです。笑えるでしょ?」
 笑える、というより不気味だ。
「ハードディスクごとコピーして解析すれば、いずれファイルは開けるはずです。どうでしょう。協力してはもらえませんか」
 そこまで話すと、江梨子は、決断を促すかのようにじっと麻里を見つめた。
 その視線に耐えられず、顔を背け、薄く目を閉じる。
 今まで聞いたことを、頭の中で反芻した。
 ──どうすべきか。
 麻里は迷った。
 じりじりと時間が過ぎていく。江梨子たち三人が、固唾を呑んで見守っているのがわかる。
「少し考えさせてください」
 目を開けると、そう答えた。もう少し考える時間がほしかった。
「明日の午後五時十分前。第1談話室に来てください。そのとき、私が在室していたら、カードキーはあきらめてください」
「なるほど」
 江梨子は口許に笑みを浮かべた。
「もし部屋にいなければ、カードキーは、持って行って構わないと」
「カードの入ったパスケースは、デスクの上に置いておきます」
「わかりました」
「では」
 麻里は立ち上がった。
「ゆっくりしていったらどうです」
 勝見が声をかける。
「せっかくだから、一曲ぐらい歌っても──」
「結構です」
 きっぱりと拒否し、ドアに向かう。
 廊下に出る前、地下アイドルといっしょに踊り狂う丸子の姿が一瞬瞼の裏に浮かび、麻里は、思い切り顔をしかめた。


12

 麻里が出て行くと、三人は、ビールを呑みながら今後のことを打ち合わせた。それが終わると、江梨子、勝見の順に店を出た。下島は、もう少し歌って帰るからと、個室に残った。
 一人きりになると、下島は、バッグに手を入れてボイスレコーダーを切った。そして、電話をかけた。
 ミスチルの「トゥモロー・ネバー・ノウズ」を激唱しているとき、家長が部屋に入ってきた。無言で差し出した手のひらに、歌い続けながら下島がSDカードを載せる。
 ひとこともしゃべることなく、家長は出て行った。
「ギザギザハートの子守唄」「ダンシング・オールナイト」「メリー・ジェーン」、さらに「マジンガーZ」と「仮面ライダーV3」のテーマソングを続けて歌うと、下島はようやくマイクを置いた。
 ちょっとだけすっきりしたような気が、しないでもなかった。


13

 監査部の自分のデスクで、昨夜のカラオケボックスでの会話をイヤホンで聴きながら、丸子は、ぎりぎりと音を立てて歯ぎしりした。
 まさか、地下アイドル好きだということが知られているとは思ってもいなかった。尾けられていると感じたのは、錯覚ではなかったのだ。しかも江梨子たちは、これまで自分が、地下アイドルの名前と生年月日をパスワードに使っていることまで掴んでいた。
 録音を全て聴き終えると、丸子は、耳からイヤホンを引き抜いた。ふつふつと胸に怒りがこみ上げてくる。
 叫び出したい衝動を、かろうじてこらえた。部屋には十人ほどの社員がいた。取り乱したところを見せるわけにはいかない。
 黙ったまま拳を握りしめ、怒りに耐える。椅子を回転させて部下に背中を向けると、気持ちを鎮めるために深呼吸を繰り返した。
 いくらか冷静さを取り戻したところで、西村麻里がカードキーを渡す確率はどのくらいだろう、と考えた。
 カラオケボックスに行った時点で、麻里の気持ちはすでに江梨子サイドに少しだけ傾いていると見たほうがいい。あんな話を聞かされたら、裏帳簿の存在を確かめたいとも思うだろう。
 ──カードを渡す確率は、六割か、あるいは七割か。
 そのほうが好都合だ、と丸子は思った。
 土日は、あえて監査部を空にし、江梨子たちをおびき出す。そして不正入室の現行犯として身柄を拘束し、とっとと会社から追い払う。ついでに、麻里にもお引き取りいただこう。彼女はもう用済みだ。
 ──ただし、パスワードが地下アイドル絡みだと知られてしまった以上、このままにしておくのは危険だ。
 デスクに向き直ると、丸子はパソコンを操作した。パスワード変更の手続きに入る。
 ふと思いついて立ち上がり、デスクの後ろにある窓に歩み寄ると、ブラインドを閉めた。どこか遠くから、双眼鏡で見張られている可能性もゼロではない。万が一にも、パスワードを打ち込むところを見られるわけにはいかない。
 再び椅子に腰を下ろしたとき、壁際に置かれているキャビネットの前に、監査部の男性社員が歩み寄った。キャビネットは、丸子のデスクのすぐ近くにあり、パソコンの画面を覗ける位置にある。
 キャビネットの中からファイルをひとつ引き抜くと、社員はその場で立ち読みを始めた。
 コホン──。丸子は、大きな音で咳払いをした。
 振り向いた社員は、丸子が自分を睨んでいるのを見て、驚いたように首をすくめた。あっちへ行け、というように丸子が顎をしゃくると、慌てて頭を下げ、ファイルを手にそそくさとその場をあとにする。
 ──たとえ自分の部下といえども、パスワードを知られるわけにはいかない。
 丸子は、再びパソコンに向かった。新しいパスワードを何にするか、考えを巡らせる。
 どうしてもアイドルの顔が思い浮かぶ。自分のポリシーとしても、パスワードは、やはりアイドル絡みでいきたい。
 ふと、ひとりのアイドルの姿が脳裏を過った。丸子がまだ小学生のとき好きになった最初のアイドル、倉田まり子。「投資ジャーナル」事件に巻き込まれて芸能界を去ったが、その美貌と脚線美で、当時はそこそこ人気があった。マニアックなファンも多かった。
 パスワードは彼女の名前と生年月日でいこう、と決めた。ただし、念には念を入れ、芸名ではなく本名を使うことにする。生年月日も正確に記憶しているから、どこかに書き留めておく必要もない。
 ──何度トライしても、このパスワードには絶対にたどり着けないだろう。
 キーボードを叩きながら、丸子はほくそ笑んだ。


14

 メールの着信音が鳴った。
 手を伸ばしてスマホを取り上げ、画面を操作する。勝見からだ。総務部五係のパート社員についての情報のようだ。ずいぶん早い。
 その内容に目を通した麻里は、思わず顔をしかめた。
 ──これは、いったいどういうことだ。
 麻里の目は、スマホの画面に釘付けになった。


<次回は10月13日(金)更新予定です>