ギロチンハウス。皆はそう呼ぶ。公式な名称はセカンドキャリア戦略室。しかし、その実態は、社員の首を切るための追い出し部屋ならぬ追い出し小屋だ。

W 決着のとき来たる

 スマホの画面でメールの内容を確認していたとき、ワアッ、という子どもの喚声が客車に響いた。
 顔を上げ、車窓に目を向けると、富士山が見えていた。雲ひとつない青空に、その美しい稜線がくっきりと浮かんでいる。
「富士山!」
「きれい、きれい!」
 子どもたちの声が弾ける。
 新幹線は、間もなく新富士駅を通過するところだ。東京まであと一時間ほど。
 夏休み中の土曜日とあって、車内には家族連れの姿が目立つ。甲高い子どもの声が苦手な麻里は、ずっとイヤホンで音楽を聴いていたのだが、それでも同じ車両に乗り合わせた子どもたちのはしゃぎ声を完全に遮断することはできない。ただでさえナーバスになっているのに、苛々は募るばかりだ。
『あと一時間で東京に到着予定』
 メールの返事を送信すると、ハンドバッグを手に麻里は立ち上がった。子どもたちの笑い声に顔をしかめながら客室から出ると、洗面所に入り、カーテンを閉める。
 軽く化粧を直しながら、麻里は、数ヶ月前に総務部五係に配属されたというパート社員の顔を思い浮かべた。こけた頬に薄い唇、どこかおどおどした神経質そうな目──。
 彼女の名前は「田辺厚子」。田辺は、未有起の旧姓だ。
 厚子は、昨日付で退職したという。理由は、一身上の都合とだけ。
 昨日勝見がメールで送ってくれた彼女のデータを見て、麻里は驚いた。勝見は女性を名前で呼ぶから、カラオケボックスに案内される途中でたずねたときにはわからなかった。とはいえ、田辺などありふれた苗字だから、未有起とは無関係かもしれないと思った。
 麻里は、すぐに柴田に電話をかけた。そして、田辺厚子が、未有起の実の姉だということを知った。ただし、柴田は、未有起の姉が京都クルミ製作所で働いていることは知らなかったようだ。
 その後柴田は、未有起に連絡を取って事情を訊き、改めて電話をくれた。それによると──。
 半年近く前──。麻里の消息を探すためにネットサーフィンしていた未有起は、麻里が京都クルミ製作所に勤めているという投稿を目にした。
 未有起は、すぐに京都にアパートを借りた。そのときから、いずれ麻里を襲撃するつもりだったらしい。
 未有起は、毎夕、会社の出入口を見張り、麻里が出てくるのを待った。あとを尾けて自宅を突き止め、日々の行動を観察し、襲撃場所を絞り込もうとした。
 しかし、京都クルミ製作所の敷地は広く、建物もいくつかに分かれていて出入口も複数あり、いつ、どこから麻里が出てくるか、まるでわからない。一週間ごとに場所を変えながら、未有起は、一ヶ月以上にわたって全ての出入口の近くに立ち続けた。しかし、麻里の姿を見ることはできず、やがて、マスクとサングラスという出で立ちが警備員の目に留まり、不審の目で見られるようになる。未有起は、会社からの尾行をいったんあきらめざるを得なくなった。
 興信所に頼んで調べてもらうことも考えたが、襲撃に成功した場合、未有起がその犯罪に関わったことは、調査員には容易に想像がついてしまう。いくら守秘義務があるとはいっても、襲撃の結果、もし麻里が死んだら、ことは殺人事件となる。興信所が警察に通報することもあり得る。
 どうしたらいいのか迷っていたとき、未有起は、会社のいくつかの部署でパートを募集していることを知った。会社の内部に潜り込んでしまえば、麻里が勤務している建物がどれかわかる。そうなれば、尾行のために張り込む出入口を絞り込むことができる。麻里に関する情報を集めることもできるかもしれない。
 自分の名前と顔は麻里に覚えられているかもしれないと考えた未有起は、かわりに姉に頼んだ。厚子は、二年前に離婚してからは、実家で両親といっしょに暮らしていたが、以前は中堅商社の総務部で働いていた経験がある。採用される可能性が高いと未有起は考えたらしい。
 そして、未有起の思惑通り、厚子はパートとして採用される。
 ──厚子さんが、どうして未有起の犯罪に手を貸すようなことをしたのか、理由はわかりません。おそらく、姉妹にしかわからない、何か特別な事情があったのでしょう。
 柴田は、苦しげな口調で説明した。
 ──未有起は、厚子さんを巻き込んだことも後悔していました。姉に申し訳なかったと、電話の向こうで泣いていました。
 柴田の話を聞きながら、麻里は暗澹たる気持ちになった。実の姉を手下に使い、復讐を計画した未有起──。その心の内側はどうなっているのだろう。どす黒い怒りと憎しみで、はちきれんばかりになっていたのだろうか。
 今日、直接未有起と会って話し、襲ったことを本当に後悔しているのかどうかを見極めなければならない。その結果、わずかでも不安が残ったら迷わず警察に事情を説明しよう、と麻里は決めていた。この先ずっと、未有起の影に怯えながら生きるのはまっぴらだ。
 小さくひとつ息をつくと、麻里は、洗面所を出て客室に戻った。


 東京駅から山手線で渋谷へ。京王井の頭線に乗り換えて十分足らず。麻里は東松原駅に降り立った。
 スマホを取り出し、相手のメールアドレスに宛て『今東松原に到着』とだけ打ち込む。『了解』と、すぐにメールが返ってくる。
 この前来たときと違い、空は厚い雲に覆われている。今にも雨が降り出しそうで、露出している肌に、ねっとりと湿気が絡みついてくる。
 腹に力を籠めながら、大股で歩き出す。柴田の家の場所はわかっているから、迷うことはない。真っ直ぐ行けば、十分もかからない。
 赤ちゃんの泣き声や、野球中継のアナウンサーの声、アイドルグループの歌声などが、通りすがりの家の中からわずかに聞こえてくるが、人通りはほとんどない。こんなに蒸し暑い午後に、すき好んで外に出ようとする住人はいないのだろう。
 柴田家の前に着いた。辺りを見回す。少し離れた場所に一台車が停まっているだけで、通りを歩く人の姿はない。
 敷地の中に入り、今日は、最初から自宅のほうのドアの前に立つ。
 チャイムボタンを押すと、
〈はい〉
 すぐに男の声が応えた。
 聞き覚えのある声。柴田に間違いない。
「西村です」
 はっきりと告げ、一歩下がって待つ。
 ほどなくドアが開き、柴田が顔を出した。
「どうぞ」
 麻里を家の中に招き入れる。
 先に立ってリビングに入ると、柴田は、奥のダイニングスペースまで進んだ。テーブルの前の椅子を引き、麻里を座らせ、自分は冷蔵庫の前に立つ。以前来たときとまるで同じだった。デジャブのように、この前の記憶が甦る。
 麻里は、仏壇が置かれた和室を振り返った。今は、襖は閉ざされている。しかし、今日も遺影の前に座らなければならないのだろう。自分のせいで亡くなった少年の顔を見るのはつらい。すでにきりきりと胃が痛み始めている。
「未有起は、まだ来てないんです」
 柴田は、麦茶が入ったグラスと、小さなおしぼりを麻里の前に置いた。
「すぐ近くまでは来てるはずなんですが」
 麻里は眉をひそめた。
「来てるはずって……、どういうことですか?」
「実は──」
 苦い表情で、柴田が麻里の対面に腰を下ろす。
「警察が待ち構えてるのではないかと、恐れているようで……」
「ですから、そんなことをするつもりはないと、私は何度も──」
「本当に警察には通報していないんですね」
「もちろんです」
 柴田は、満足げな顔つきでうなずいた。
「ところで──、未有起の姉の厚子が会社にいることは、どうしてわかったんですか?」
「会社の廊下で偶然すれ違ったとき……、何か引っかかりを感じて……、どこかで会っているような気もしたんです。今にして思えば、前の会社でお会いしたときの未有起さんと、感じが似ていたからかもしれません。それで、気になって自分で調べてみたんです」
「ご自分で?」
「ええ。私は人事部の所属ですから、調べるのは簡単です」
 勝見のことは、最初から黙っておくつもりだった。とにかく、話をスムーズに進めたかった。
「では──」
 柴田は、テーブルの上にわずかに身を乗り出した。
「あなたが今日、ここに来ることは、誰にも話してないんですね?」
「ええ、もちろん」
 麻里の返事に、柴田の唇が吊り上がった。笑ったのだ。
 その笑顔を見て、麻里は、自分の体温がすっと下がるのを感じた。それは、今まで柴田が見せていた顔とは全く違っていた。まるで、無力な獲物を前に舌なめずりしている野獣のような笑みだった。
 柴田は、麻里の顔を真っ直ぐ見つめてくる。その鋭い目に射すくめられ、身動きすることができない。まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。
「出てきていいぞ」
 麻里に視線を向けたまま、柴田が言った。
 背後で、するすると音を立てて襖が開く。人の気配がする。
 強張った首を必死で回し、和室を振り返る。
「あなたは……」
 麻里は、驚きに大きく目を見開いた。
 田辺厚子だった。頬が腫れ、唇は切れ、目の周りには痣ができている。
「さあ、始めようか」
 柴田は立ち上がった。ついさっきまでの、穏やかで誠実そうな雰囲気はまるでない。
「な……、何をするの」
 それだけ口にするのがやっとだった。素早い動きで背後に回り込み、片手で麻里の肩を押さえながらテーブルの上のおしぼりを手に取ると、柴田は、助けを求めて叫ぼうと開けた口に、いきなりそれを押し込んだ。
 必死でもがいたが、背後からすごい力で身体を押さえ込まれる。大きな手が口を塞ぐ。おしぼりで口の中がいっぱいになる。
「おい」
 和室に向かって柴田は声をかけた。
 厚子は、ガムテープを手にしている。その手が震えているのがわかる。あきらかに怯えている。柴田は、恐怖で彼女を支配している。
「ぐずぐずするな」
 柴田が命じる。
 ガムテープを手によろよろとした足取りで近づくと、厚子は、それを麻里の口にぐるぐる巻きにした。
 おしぼりで喉が詰まる。声が出ない。息もできない。
 いきなり抱きかかえられ、持ち上げられた。足が宙に浮く。バタバタと動かすが、柴田は動じない。
 和室まで運ばれ、うつ伏せに倒される。両腕を背中に回され、手首を合わされて、ガムテープを巻かれる。足首も同じようにして固定される。
 必死で顔を上げると、目の前に仏壇があった。少年の遺影がこっちを見下ろしている。
「未有起!」
 柴田が呼んだ。
 ──未有起が来ているのか。
 ぎょっとしながら背後に首を捻る。しかし、部屋にいるのは柴田と厚子だけだ。
 ──まさか……。
 麻里は目を剥いた。
 うつむきながら女性が和室に入ってくる。
 ──この女性は、姉の厚子なんかじゃない。
 そのことに気づいた途端、背筋が凍りついた。
 ──彼女が未有起だ。本人なのだ。
「そこに座れ」
 柴田が肩を押す。崩れるようにして、未有起が麻里の横に正座する。
「よく見ておけ。この女のせいで和也は死んだんだ。今から罪を償わせる」
 仏壇に歩み寄ると、柴田は、その横に立てかけてあった金属バットを手に取った。


<次回は10月20日(金)更新予定です>