『逆説の世界史』井沢元彦

第117回

2017.5.15

第五章|多神教文明の興亡U

第1話 インダス文明の盛衰

ヒンドゥー原理主義的な歴史解釈の弊害とは?

前回に引き続いて、『インダス文明の謎 古代文明神話を見直す』(長田俊樹著/京都大学学術出版会刊)を参考に、インダス文明について考察したい。

「世界四大文明」と呼ばれるもののうち、エジプト文明、メソポタミア文明、黄河文明は、それぞれ大河の畔に生まれた文明であった。歴史家ヘロドトス(Herodotus/BC484頃〜420年以前)が「エジプト(文明)はナイル(川)の賜物である」と喝破したように、定期的に氾濫する大河が肥沃な土を大地にもたらした結果、食糧が容易に増産され、その蓄積が巨大な権力を生むと同時に、生活の余裕が様々な文化を創造させる。これが共通するパターンであった。

では、世界四大文明の残りの1つ、インダス文明も他の三者と同様な「大河文明」なのか?

もちろんこれまではそう考えられていた。というのは、この文明が他の3つと違って、後世への影響も少なく「影の薄い」状況にあるのは、ハラッパー、モヘンジョ・ダーロの二大遺跡の現状から見て、かつて文明を支える大河があったのにそれが消滅してしまったという環境の激変が、この文明を崩壊に導いたと考えられてきたからだ。

モヘンジョ・ダーロ遺跡(パキスタン)

しかし、インダス文明には、他の3つの文明に見られる巨大な王権や宗教の存在を示す遺物がまったく発見されていない。エジプト文明におけるクフ王のピラミッドやアブ・シンベル神殿(Abu Simbel Temple)のようなモニュメントがまるで無いのだ。これは極めて異常なことで、逆にここからインダス文明とは他の3つの文明とはまったく異なるものであり、それ故に「大河文明」でもないのではないかという考察が生まれるわけだ。

さて、前出の研究者長田氏の所属する総合地球環境学研究所のインダス・プロジェクトでは、ハラッパー、モヘンジョ・ダーロの二大遺跡に続いて発見された三大遺跡のうち、ガンウェリワーラー(パキスタン)に注目する。

この遺跡は現在タール砂漠(the Thar Desert)の中にあるが、大きな川筋跡と見られる痕跡があり、それは後のヒンドゥー文明の女神の名を冠した大河サラスヴァティー(Sarasvati)ではないかと考えられてきた。つまり、これが消滅したサラスヴァティー川であり、大河であったなら、インダス文明も大河文明であり、その大河が枯渇したことによってインダス文明は衰えたのだと説明できるし、逆に、サラスヴァティー川が大河でないなら、インダス文明はエジプト文明やメソポタミア文明とはまったく違うものだと推論できるのだ。

このサラスヴァティー川問題について、インダス・プロジェクトに属する「古環境研究ワーキング・グループ」が、サラスヴァティー川のあったとされる場所に現在流れているガッガル=ハークラー川(Ghaggar-Hakra River/同じ河川をパキスタンでは「ハークラー」と呼び、インドでは「ガッガル」と呼ぶ)のインド国内部分を精査し、河川の特徴を割り出した。

それによると、ガッガル川は年中水が流れている川ではなく、雨季にのみ水が流れる季節河川で、氾濫することもあるが、その規模はそれほど大きくないと見られるという。その証拠に川の両側には多数の砂丘が存在している。しかも、もし氾濫の規模が大きいものなら砂丘は広い範囲で浸食されるはずだが、その痕跡は見られない。ガッガル川は氾濫してもそれほど周囲に影響を与えない。つまり大河ではない。

「そうであるべき(願望)」が優先すれば歴史学は崩壊する

しかし、だからといってただちにガッガル川の「前身」であるサラスヴァティー川が大河ではなかったとは言い切れない。それを証明するためには、現在の砂丘がいつ頃からあったのか、年代決定する必要がある。

「古環境研究ワーキング・グループ」はOSL(光ルミネッセンス年代測定法)を用いて、砂丘深部の砂がどれくらいの時間日光に当たっていないかを測定した。

その結果、「いずれもインダス文明期(いまから四五〇〇年前)よりも古い年代が出た。一番新しい年代でも五〇〇〇年前で、たいていは一万年以上の年代だった。つまり、ガッガル川流域の砂丘はインダス文明期以前からあったことになる。したがって、インダス文明期において、ガッガル川は砂丘を浸食するような大河ではなかったのである。
(引用前掲書)

つまり、サラスヴァティー川が大河ではなかった、ということだ。

もっとも、長田によれば、このような科学的証拠に基づく主張に対して、聖なるサラスヴァティー川が大河でないはずがない、という感情的とも取れる反応が、某インド人研究者からあったという。その背景には次のような事情があるという。

インドはヒンドゥー国家だと主張する人々がいる。この人々をヒンドゥー原理主義者とよんでおく。かれらはインドの歴史解釈に、ヒンドゥー教的潤色を加えようとしている。その一つがインダス文明はヒンドゥー教の故郷であり、インダス文明の担い手はヒンドゥー教を信仰する人々だったと主張する。それがエスカレートすると、インダス文字はサンスクリット語で解読できる、と声高らかに宣言する人々までいる。こういった人々はインダス文明という名称を認めない。シンドゥー=サラスヴァティー文明とよぶ。シンドゥーはインダスのサンスクリット語の呼び方である。もちろん、かれらにとってはサウスヴァティー川が大河であったことは自明のことなのである。
(引用前掲書)

サンスクリット語は言うまでもなく、ヒンドゥー文明の基本言語であり、ヒンドゥー教のみならず初期の仏教経典もそれで書かれている(東洋社会ではこれを「梵語」と呼んだ)が、インダス文字との言語学的関連は科学的には立証されていない。

「そうである(事実)」より「そうあるべき(願望)」が優先すれば、歴史学のみならず、すべての学問は崩壊する。もちろん個々の人間の信仰の自由は尊重するが、この『逆説の世界史』はそうした特定の思想や宗教にとらわれることなく、あくまで科学的事実と合理的な推論によって記述していることを改めてお断わりしておく。

ここでは当然、私はこのインダス・プロジェクトが出した「インダス文明は大河(に依存する)文明ではない」という結論を支持したいと思うのだが、そうなると事は重大である。

インダス文明の実像とはどのようなものか? 特に、農業の形態、社会の支配構造はどうなっていたのか? という新たな疑問が浮かんでくるからだ。

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