『逆説の世界史』井沢元彦

第121回

2017.7.18

第五章|多神教文明の興亡Ⅱ

第1話 インダス文明の盛衰

悟りを開いた釈迦の伝道の旅と仏教の四大聖地

悟りを開いた釈迦は、これを人々に伝えるのは大変困難だと考え、ただちに涅槃(ねはん)に入ろうとした。すなわち、この世を去ろうと思ったのだ。ところが、そこにブラフマー(brahma 梵天)が現れた。ブラフマーはヒンドゥー教における宇宙の真理であるブラフマンの化身で、「真理」が人格神の形をとったものだ。

ブラフマーは釈迦に「あなたの得た悟り、それに基づく教えを一人のもので終わらせず、広く衆生(しゅじょう)に説くべきだ」と熱心に口説いた。これを「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」と呼ぶ。

ブラフマー像(インドのムンバイ)

釈迦はそれでもためらっていたが、三度にわたってブラフマーに「教えを説いて衆生を救うべきだ」と要請されたため、とうとう法(教え)を説くことを決意した。そこで、まず釈迦はかつて一緒に修行した5人の仲間を求めて、悟りを開いた場所(後にこれを記念して「ブッダガヤ」と呼ばれた)から近くのサールナート(Sarnath 鹿野苑)に向かった。

5人の修行者は、釈迦が苦行を捨てたことを堕落と捉えていたため、釈迦を軽蔑していた。しかし、再び現れた釈迦があまりに神々しく自信に満ちているため、最初は反発しながらもその説法を聞いた。釈迦が初めて教えを説いたということで、これを「初転法輪(しょてんほうりん)」と呼ぶ。この時代、ヒンディー語では教えを説くことを「法輪を転ずる」といった。イディオムである。日本語の「口車に乗せる」と同じで、実際に「車が回っていた」わけではない。しかし、後に仏教が伝播した国々では、「法輪」を釈迦の教えの象徴とし、実際にそれを回す儀礼も行なわれるようになった。

初転法輪で釈迦が説いた教えの内容は、「四諦(したい)」と「八正道(はっしょうどう)」であったとされる。

「諦」とは根本的な真理のことで、それを4段階に分けて認識することが悟りの第一歩である。

第1段階は「苦諦(くたい)」である。人生はすべて自己の思う通りにはならず、苦そのものであり、それを認識することである。

第2段階は「集諦(じったい)」だ。なぜ苦が生じるのか、それは人間には煩悩があり、多くの欲望に囚われているからだ。

第3段階は「滅諦(めったい)」で、そうした煩悩を滅することこそ、まさに輪廻からの解脱を可能にし、最終的な悟りの境地、つまり涅槃に導くものと悟ることである。

そして最終段階の「道諦(どうたい)」は、この悟りに導く8つの修行つまり八正道を実践すること、それこそが真の悟りへの道であると認識することである。

では、八正道とは何か? 「正見(しょうけん)」(物事を正しく見ること)、「正思(しょうし)」(物事を正しく考えること)、「正語(しょうご)」(言葉を正しく使うこと)、「正業(しょうご)」(物事を正しく行なうこと)、「正命(しょうみょう)」(正しく生活すること)、「正精進(しょうしょうじん)」(正しく努力すること)、「正念(しょうねん)」(正しい気遣いをすること)、「正定(しょうじょう)」(正しく精神を統一すること)である。

「正しく○○せよ」と言われても、その具体的な内容まで経典に明確に記されているわけではない。それは各々が出家し釈迦の弟子となって、その言行を見習うしかないのだが、とにかく釈迦はまずこの5人を最初の弟子とし、説法の旅に出ることになった。

まず釈迦は当時の大国であったマガダ国(Magadha 現在のインド共和国ビハール州)の首都王舎城(ラージャグリハ Rājagṛha 現在のラージギル)に向かった。釈迦がラージャグリハに行くと、マガダ国の王頻婆娑羅(ビンビサーラ Bimbisara/BC558頃~491年頃/在位BC543頃~491年頃)がその教えに帰依した。

その頃、数千人規模に膨れあがっていた釈迦の教団のために、頻婆娑羅王は広大な竹林を精舎(修行者の拠点)として教団に寄進した。この精舎が後に「寺院」と呼ばれるようになる。釈迦が修行の本拠とした霊鷲山(りょうじゅせん)もここにある。

マガダ国の城壁跡を取材する著者
『平家物語』の冒頭に登場する「祇園精舎」の由来

また、釈迦の十大弟子の一人とされ、大乗仏典の根本経典である『般若心経(はんにゃしんぎょう)』にも登場する舎利弗(あるいは舎利子。Śāriputra シャーリプトラ)は、このマガタ国の出身で竹林精舎時代に釈迦の弟子となった。その後、釈迦の十大弟子の一人で、実子でもある羅睺羅(ラーフラ Rāhula)を指導したのも、この舎利弗である。

同じく十大弟子の一人、阿難(アーナンダ Ānanda)もこの頃に弟子となった。阿難は釈迦の従弟(母親が姉妹)で、阿難の兄は提婆達多(デーバダッタ Devadatta)である。当初は出家して釈迦の弟子となったのだが、教義において対立し、多くの弟子を引き連れて独立した。このため仏典では異端者、極悪人として描かれる。教勢を確立するため、マガダ国王子の阿闍世(Ajātaśatru/生没年不詳/在位BC491頃~459年)を唆し、父王頻婆娑羅を殺させ王位に就かせ、あまつさえ釈迦まで殺害しようとしたが失敗し、やがてその報いで死んだとされる。

その阿闍世が頻婆娑羅を幽閉し餓死に至らしめたのが、「逆説の世界史紀行~インダス文明と多神教世界」後編でも紹介した「七重の牢獄」である。提婆達多の死後、阿闍世はその罪を悔いて仏弟子となったという。このあたりは日本初の70ミリ映画『釈迦』(三隅研次監督/本郷功次郎主演)のクライマックス・シーンでもある。仏典では悪意をもって描かれているので提婆達多の教えの内容は明確ではないが、釈迦の教団より厳しい戒律の集団であったことは確かなようだ。

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