『逆説の世界史』井沢元彦

第124回

2017.9.15

第五章|多神教文明の興亡Ⅱ

第1話 インダス文明の盛衰

阿弥陀如来の誕生とシルク・ロード

さて、インダス文明の精華の1つである仏教の「その後」を見て行くことにしよう。

『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』(以下『法華経』と略す)は「どんな不完全な人間でも仏陀(ぶっだ)になれる」ことを他ならぬ釈迦が保証している。

従って、この『法華経』こそあらゆる仏典の中で最上のものだと格付けたのは、中国、隋時代の高僧智顗(ちぎ)であった。中国の天台山にこもって、天台宗の実質的開祖となった彼は、後に「天台大師」と呼ばれた。

この中国天台宗を、「シルク・ロードの終着駅」日本から学びにやって来たのが最澄(766あるいは767~822年)である。帰国して天台法華宗を開創した最澄は、日本の首都京都(平安京)を見下ろす北東の山岳比叡山に延暦寺を築き、その教育理念として「山家学生式(さんけがくしょうしき)」という規則を桓武天皇(737~806年/在位781~806年)に提出し、天皇家の庇護の下、後進の育成を始めた。

「山家学生式」には次のようにある。

 国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人言く、「径寸十枚、これ国宝に非ず。一隅を照らす、これ則ち国宝なり」と。古哲また云く、「能く言ひて行ふこと能はざるは国の師なり。能く行ひて言ふこと能はざるは国の用なり。能く行ひ能く言ふは国の宝なり、三品のうち、ただ言ふこと能はず行ふこと能はざるを国の賊となす」と。

〈大意〉
国の宝とは何か? 宝とは悟りを求める心であり、その心を持つ人を国の宝と呼ぶべきだ。だから、昔の人は言った。宝石などは国宝ではない。社会の底辺にも光をあてる人こそ国宝だ、と。またこうも言っている。正しいことを主張するが実行はできない人は国の師であり、主張はしないが正しいことを実行できる人は人材である。そして正しいことを主張し実行できる人こそ国の宝である(私はこのような人材を育成したい)。

延暦寺 根本中堂(滋賀県)

最澄とその後継者たちはこの宣言通り、後進の育成に力を注いだ。最澄の生きた時代は日本の歴史区分では「平安(平安京に政権があった)時代」と呼び、天皇と取り巻きの貴族(公家)つまり朝廷勢力が日本を治めていたが、12世紀末になると、地方の開拓地で農場主として財力を持ち、自主的に武装することによって、統制力の衰えた中央政府に代わって軍事面でも日本の中核となる階級が新たに生まれた。

これが武士階級つまりサムライである。彼らは天皇の住む京都ではなく、それより300キロあまり東に位置する鎌倉で軍事政権を立ち上げた。そのリーダーを征夷大将軍、略して「将軍」と呼んだ。

将軍はもともと天皇に任命される、異民族撃退を目的とする軍団長を意味した。貴族以外のサムライ出身ながら初めて将軍となった源頼朝(1147~99年)は、武士の第一人者として天皇に任命される将軍が、その権威に基づいて日本に軍政を敷き、実質的に支配するという、新しい政権の形を作ったのである。その将軍が駐屯する本営が幕府であり、鎌倉幕府に政権があった時代を「鎌倉時代」と呼ぶ。

天皇の反撃にあって鎌倉幕府が滅亡するまでの約百五十年間(1185~1333年)、日本は、それまで文化の担い手であった天皇・貴族に代わって、サムライが主役となり、実利的な大衆文化の時代となった。それに合わせて仏教も、貴族文化の一環である平安仏教から鎌倉新仏教へと変化した。

その先達者は法然(ほうねん 1133~1212年)である。

法然は比叡山延暦寺で天台教学を学び、その第一人者と見なされるほどの学者でもあったが、『法華経』には「如何にして仏陀になるか」の方法が説かれていないことに不満を覚え、大衆を救済するという大乗仏教本来の目的にかなう道を探求した結果、釈迦如来ではなく阿弥陀(あみだ)如来を「選択」した。そして、ひたすら阿弥陀如来を信仰することによって、死後に阿弥陀如来の支配する極楽浄土に往生(転生)することを目指した。極楽往生さえ成功すれば、どんな人間でも阿弥陀如来の指導の下に仏陀となれるからだ。

それでは、阿弥陀如来とはどんな仏なのだろうか? そもそも「如来」と言うからには釈迦如来と同格であり、悟りを開いた存在つまり仏陀である。

大乗仏教では、歴史的実在である釈迦を、いくつも存在する多元的世界の中の一存在に過ぎないと考える。仏教の世界観はSF小説の多元的宇宙論に似ていて、三千の世界が並行して存在していると考える。その中には当然、釈迦如来とは違って、救済の方法を明示している如来がいても不思議ではない。

それが阿弥陀如来である。阿弥陀如来という概念もやはりインドではなく、シルク・ロードのどこかで2世紀頃に突然誕生し、その教えは中国を経て日本にも伝えられた。

阿弥陀如来が他にも複数存在する如来たちとまったく違うところは、阿弥陀自身を念仏する者は自分が必ず極楽往生させてやると誓願を立てていることである。これを「本願」と呼ぶ。

法然が自分の一生と主張を要約した「一枚起請文」

問題は、念仏とは一体どんな行為を指すかということである。中国そして日本では、当初それは阿弥陀および極楽浄土を想像することだとされた。そのため、平安時代の貴族たちは阿弥陀如来像を祀る寺を建立し、そこに極楽浄土の世界を庭園として再現し、日々阿弥陀の世界を想像することに努めた。これを特に「観想念仏」と呼ぶ。

観想念仏は精緻な仏像、巧妙な建築・庭園そして多くの絵画など平安美術を高めるのに大いに貢献した。しかし、法然はそのようなことは特権階級である貴族にしかできないことであり、それでは庶民は救われないと考えた。そもそも阿弥陀の本願は大乗仏教の本旨に基づくものであるはずだから、阿弥陀はそのような特権階級にしかできないような念仏を要求していないと考えたのである。

そこで法然は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ=私は阿弥陀如来に帰依します)」と唱えること、つまり、阿弥陀如来を信じますと口頭で信仰告白することが一番大切だとした。

観想念仏に対して、それは「口誦(くじゅ)念仏」と呼ばれ、方法論としては既に中国あたりで確立され、日本の平安時代にも実施されていたが、正式な観想念仏に対する簡略形の扱いであった。

しかし、法然は逆に口誦念仏こそ唯一の正しい道だと考えたのである。今述べたように、より多くの大衆を救済するという、大乗仏教の本旨に沿うものだからだ。

その道しかないと決めた法然は、『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』というまさに自分の主張を世に問う著書を著したが、印刷術もなく識字率も低かった鎌倉時代に、その著書を読んでもらうことで世の中を変えようとしたわけではない。比叡山を出て多くの弟子を育成して、生涯口誦念仏の普及に努めた。

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