『逆説の世界史』井沢元彦

第126回

2017.10.16

第五章|多神教文明の興亡Ⅱ

第1話 インダス文明の盛衰

11世界に先駆けて「信教の自由」を確立した織田信長

阿弥陀如来という「一神」を信仰する信徒集団の中でも最大の規模を誇るのが、本願寺であった。

本願寺はそもそも真宗(浄土真宗)の開祖である親鸞の寺で、親鸞がその時点でも千七百年に及ぶ仏教史上初めて公式に妻帯に踏み切り子をなしたことから、日本いや世界でも唯一であろう「開祖の直系子孫」が運営する仏教寺院であった。ただし、阿弥陀如来を信仰する信徒集団の中で、当初、本願寺は最大の団体ではなかった。阿弥陀如来を「一神」として信仰し、その下にはすべての信徒が平等であると考えるなら、特別な家系はまったく必要ないからだ。親鸞の子孫だからといって特別に重んじられることはなかった。本願寺は衰微し、廃寺寸前まで追い込まれた。

この流れを変えたのは、本願寺8世の住職にして真宗全体の統率者であった。蓮如(1415~99年)である。蓮如はエネルギッシュな人物であった。真宗は当初から一夫一婦制で側室などを持つことは許されていないのだが、この制約の中で、蓮如は男子13人、女子14人の計27人の子をもうけた。正妻たちとは4度死別し、5番目の正妻は50歳年下だったが、5男2女を産んだ。蓮如は彼らを全国に派遣し、布教活動を拡大した。

蓮如は信徒からの信仰上の疑問にいちいち手紙で誠実に分かりやすく答え、その写しを広く信徒に配布した。これを「御文(おふみ)」という。

また、寺の無いところでは、信徒同士が定期的に集会を開き信仰を語ったり、生活を助け合ったりすることを可能にする組織を作った、これを「講」という。

この2大システムの採用によって本願寺の教勢は拡大し、推定数百万の信徒を擁する巨大宗教団体に成長した。

日本という国は、古来天皇が支配する国であった。その根拠は、天皇が天照大神という太陽の女神の血をひく直系の子孫である、という伝承に基づいている。従って、日本では中国やヨーロッパのように、皇帝や国王と何の血縁関係もない者が、その地位を奪って自ら皇帝や国王になることは政治的に不可能であった。

しかし、天皇に日本の統治権を委任されたという形をとれば、天皇家の血縁がなくても日本を実質的に支配することができる。これが12世紀末に天皇の政府である「朝廷」に替わって、日本を支配することになったサムライの政権「幕府」であった。そのトップが将軍である。

注意すべきは、幕府成立後も朝廷は廃止されたのではなく存続した、ということだ。形式ではあるが、将軍はあくまで天皇に任命されるものだからだ。実質的には武力で、中国やヨーロッパのようにライバルを押しのけた者が、最終的に天皇から将軍に任命され、幕府を設立して国の運営にあたる。将軍の地位は初代将軍の直系の子孫が世襲するが、ちょうど中国の王朝のように、何代も続くと腐敗堕落し、別の家系に取って替わられることがある。まさに王朝交代のようなものだ。

日本には歴史上3つの幕府が存在した。成立順に鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府(鎌倉、江戸〈東京の旧名〉は都市名、室町は京都の町名で、いずれも政権の本拠が置かれた場所を示す)だが、2番目の室町幕府の末期(16世紀後半)に、日本は大戦乱の時代に突入した。他の国でいえば「州」にあたる、日本の六十余州を分割統治していたサムライ軍団の長「大名」が、将軍を無視して勝手に領土拡張戦争を始め、混乱の収拾がつかなくなった。

そこで、この時代を特に「戦国時代」と呼ぶのだが、この時代、本願寺の命令一下戦争も辞さない強力武装集団と化した。これを特に「一向一揆(あるいは一向宗)」〈注1〉と呼ぶ。

戦闘集団と化したのはやむを得ない事情があった。東大寺(華厳宗)、興福寺(法相宗)のような旧来の仏教団体は、既に述べたように、僧兵というプロの兵士を多数擁していたからである。僧兵は寺々の利権を守るため幕府とも戦い、教勢を拡大するためには他の宗派の拠点を攻めたり信徒を殺すこともあったので、自衛のために武装せざるを得なかったのである。

ただし、僧兵は寺院に属する正規兵だが、本願寺の兵士はほとんど信徒からなる義勇兵であった。逆に言えば、ゲリラ的強さを発揮した。いや、信仰のためには死を恐れぬ彼らは、戦国最強の軍団だったかもしれない。現に彼らは大名である富樫氏を倒して加賀国を本願寺の支配下に置いた。サムライにボランティアが勝ったということだ。彼らの拠点は、当時、日本有数の大都市である大坂の一地区(当時は「石山」と呼ばれた)にあったが、その石山本願寺は「戦国最強の城」と呼ばれた。

〈注1〉一揆とは「揆(みち)を1つにする」ことで、共通の目的達成のために結成された集団のこと。一向一揆とは戦国時代に本願寺門徒の武士・農民らが幕府の武将や守護大名と戦うために結成された一揆、あるいは彼らの武装蜂起のこと。

西本願寺(京都府)
宗教団体が血で血を洗う抗争に発展した16世紀後半の日本

当時、本願寺のトップであった顕如(1543~92年)は、こうして教勢を拡大し、最終的には日本全体を「本願寺国」にしようと考えていたのかもしれない。本人がどう考えていたか、直接の史料は残されていないのだが、「一神教」真宗とキリスト教の最大の違いは、ローマ帝国では皇帝がキリスト教に入信し国教としたのに対し、日本の天皇は真宗に入信はしなかった、ということだ。日本の天皇は「神の子孫」であるから、あらゆる仏教宗派の上に君臨し、それを保護するという伝統的立場をとっていたのである。

天皇は華厳宗や法相宗も保護したし、本願寺(真宗)も保護した。

また、華厳宗などに比べれば比較的新しい仏教である真宗には、ほぼ同時期に生まれた日蓮宗という有力なライバルもいた。日蓮宗は開祖日蓮(1222~82年)が独特の「啓示」を受けて始めた宗派で、阿弥陀如来信仰などは大乗仏教の本義からいえば無用有害のもので、根本経典である『法華経(妙法蓮華経)』への信仰こそ、唯一絶対のものだと考える。

具体的には「南無阿弥陀仏」という念仏ではなく、「南無妙法蓮華経」つまり「法華経に帰依します」という唱題(題目〈法華経というタイトル〉を唱える)ことが最も重要だとするのである。これは「ナンミョーホーレンゲキョー」と聞こえる。この日蓮宗の流れをくむのが、現代日本の巨大宗教団体「創価学会」である。

日蓮は真宗を「念仏無間(ねんぶつむげん)」つまり念仏など信じていると地獄に落ちるぞ(無間とは無間地獄のこと)と批判した。真宗の信徒は怒り、「取り消せ」と言った。もちろん宗祖の言葉は取り消せないから、結局は戦争で決着をつけようということになる。双方とも武装しているからである。

また、東大寺や興福寺や延暦寺(天台宗)も、ヨーロッパにおいてカトリック教徒がプロテスタント教徒を迫害したように、真宗や日蓮宗の拠点を攻撃し、多くの信徒を虐殺した。

結局、16世紀後半の日本は、三十年戦争(Thirty Yearsʼ War/1618~48年 ドイツを舞台にして行われた最後にして最大の宗教戦争)のヨーロッパのように、宗教団体が血で血を洗う抗争に発展した。違いは、ヨーロッパは「カトリック対プロテスタント」だが、日本は各宗派入り乱れての宗教戦争だったことだ。

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