『逆説の世界史』井沢元彦

第127回

2017.11.1

第五章|多神教文明の興亡Ⅱ

第1話 インダス文明の盛衰

12禅宗が儒教に敗北した中国と共存にこぎつけた日本

中世に当時の中国(宋)に留学して日本に禅をもたらした道元(1200~53年)が、初めて中国に着いた時のエピソードが、『典座教訓』という本に書かれている。ちなみに「典座(てんぞ)」とは寺院の食事担当の僧をいう。

道元の船が宋の港に到着し、まだ下船の許可がおりず船内で待機していたところ、日本からの貿易船が入港したと聞きつけた、ある禅宗寺院の老典座が、干しシイタケを買い付けにやって来た。日本産の干しシイタケは味が良く、麺類の出汁として重宝されていたのだ。禅を学びに来た道元は喜んで、老僧を引き留めいろいろと質問しようとした。ところが老僧は「食事の支度があるからすぐに帰らなければならない」と言う。そこで道元は「食事の支度など若い修行僧にやらせ、あなたは高齢なのだから雑事はやめて座禅などの修行に励めばいい」と言ったところ、老僧に大笑いされた。そして老僧は言った。「お若いの、あなたは修行とは何か、まるで分かっておられぬな」と。そのまま老僧は帰ってしまった。

唖然としたであろう道元の表情が目に浮かぶ。それが道元にとって大きなカルチャーショックであったことは、彼がこのエピソードをテーマに『典座教訓』という一冊の著作をものしたことでも分かる。道元はこの本の中で、この老典座のおかげで禅の本質に目覚めたと回想している。

それにしても『典座教訓』は表面的には「料理本」である。料理と宗教、一見何の関係もないものが結びつくのが禅なのだが、一体どういうことなのだろうか?

改めて禅の定義を述べれば、〈「禅」の原義は、(天子が)神を祀る、(位を)譲る、などで、これを仏教がかりたのである。姿勢を正して坐して心を一つに集中する宗教的修行法の一つ。インドでは古くから行われていたが、仏教の基本的修行法に取入れられて中国に伝わり、禅宗として一宗派を形成した。宗祖はインド僧菩提達磨(ぼだいだるま)とされるが、宗派として成立したのは6祖慧能(えのう)からで、その跡を継ぎ中国禅宗五家が成立。このうち宋代には臨済、雲門の2宗が栄え、臨済宗は公案を手段とする看話禅(かんなぜん)を鼓舞し、雲門の系統をひく曹洞宗は正身端坐の坐禅を重視する黙照禅を説いた〉(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目版』より一部抜粋)である。

この説明にもある通り、「禅」という修行法あるいは「禅宗」という大乗仏教の宗派は、古代中国あたりで確立されたものであり(慧能〈638~713年〉は中国唐代の僧)、だからこそ日本曹洞宗の始祖、道元は宋に留学して禅を学んだのだ。

ところが、今の中国では禅宗はほとんど滅んだといってもいいだろう。少なくとも宋代以降、禅宗は中国人の思想や行動あるいは文化に影響は与えていない。

だが、日本文化に与えた影響は極めて甚大であった。その証拠に『ブリタニカ国際大百科事典』の英語版でも、「禅」は中国語の「Chan」ではなく、日本語の「Zen」の項目に載せられている。つまり中国では、禅宗は民族宗教である儒教や道教に敗北したが、日本ではしぶとく生き残り、日本文化の核の1つになったということなのだ。

では、具体的にはどのような形で、どのような影響を与えたのか?

その疑問を解くカギが冒頭の道元のカルチャーショックにある。要するに、禅宗の僧侶にとっては、日常生活の行住坐臥(ぎょうじゅうざが)がすべて修行だということだ。

例えば掃除。ヒンドゥー教や儒教の世界では、それは身分の低い人間の仕事で、エリートは絶対にやらない。むしろそういうことをしないのがエリートの証明でもある。ところが禅宗では、たとえ俗世間で王侯貴族であった人間でも、出家して僧になればまずトイレ掃除当番をやらされる。人間生きていく上では食事とともにトイレは欠かせないからだ。布団の上げ下ろしや洗濯など、昔は身分の低い人間(あるいは女性)にやらせていたことも、全部自分でやらされる。そんなこともできない人間がいくら座禅をしたとしても、到底悟りへの道は開けないと考えるからである。

道元は基本的には出家主義で、釈迦と同じように地位も身分も財産も妻子も捨てて出家し、修行に励むのが正しい道だと考えていた。しかし、男子全員がそうすれば社会は崩壊してしまう。そこで道元の弟子たちは、在家そして女性の信者も重視する方向に向かった。この曹洞宗の方向性を確立したのが、瑩山(1264または68~1325年)である。また、臨済宗もその方向に進んだ。

「華道」や「茶道」はいかにして生まれたか

日常生活の行住坐臥がすべて修行であるならば、在家の信者が生きるために励む仕事も、すべて賤業であるはずもなく、それに集中して励むことは仏道修行ということになる。

例えば仏教では、死者の前に花を供え香を焚くという習慣(香華をたむける)がある。これはおそらく仏教発祥の地インドでは猛烈な暑さで遺体の腐敗が進んだからだろう。つまり、悪臭を防ぐという実用的な目的があった。

ところが日本では、その「花の生け方」が技術として独立したばかりか、絵画や彫刻と並ぶ芸術の一分野として確立した。これを「生け花」また「華道」ともいう。

茶とは、まずい水をうまく飲む工夫だ。イギリス人もモンゴル人もそのために中国茶を欲した。しかし、日本は軟水の宝庫である。地形と気候の絶妙なバランスの賜物で、茶を必要としなかった。だから8世紀に初めて中国から茶が伝来したが、それを飲む習慣は根付かなかった。

ところが、日本臨済宗の始祖栄西(えいさい 1141~1215年)が、茶のカフェインによる覚醒作用に注目し、修行を助け、健康にもいい飲料としておおいに推奨したため、茶の飲用が習慣として根付いたばかりか、茶の飲用自体を禅的な世界への導入の儀式とする「茶の湯」つまり「茶道」も生まれた。

「道」とは、「禅」と同じく本来は中国語であり、通路の意味だったが、転じて「人の通るべき場所」であると同時に、道徳あるいは美の根元への道を示す言葉となった。そして日本では禅宗の影響で「花を生けること」「茶を飲むこと」が華道および茶道へとつながった。

同じく禅宗の影響で、日本では他国に例がない独特の作庭術が発展した。世界文化遺産となった京都西芳寺(さいほうじ)の庭は、通常の庭園では邪魔者扱いされていた苔を主役としたユニークな庭園であり、同じく世界文化遺産である京都龍安寺(りょうあんじ)の庭は、水を一切使わず、砂と石によって水に満ちた世界を表現した、これまたユニークな庭園である。

この両寺院はともに臨済宗に属する。こうした作庭を行なう人間は、多くの国々では名もない技術者である。しかし日本では高僧や名のあるサムライが設計者であることが珍しくない。臨済宗の高僧夢窓疎石(むそうそせき 1275~1351年)、大名の小堀遠州(こぼりえんしゅう 1579~1647年)がその代表的人物である。そして実際に作庭にあたる職人たちも「一芸に秀でる者」として社会的に尊敬された。

儒教の世界では身分秩序である「士農工商」のうち、作庭職人は第三身分の「工」に属するので、エリートである「士」は彼らを蔑視し、彼らの作品を文化として評価することは一切ないが、日本はその正反対であった。これが、禅が儒教に負けた世界と、勝ったか少なくとも共存にこぎつけた世界との違いを生み出した。

龍安寺(京都府)の石庭
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