『逆説の世界史』井沢元彦

第129回

2018.09.18

第五章|多神教文明の興亡Ⅱ

第1話 インダス文明の盛衰

14「キリスト教なき資本主義」はなぜ日本で生まれたのか

この『逆説の世界史』は毎回連載を読んでいただいていることを前提に書いているわけだが、ひょっとしてこの回から読み始めたという読者もいるかもしれない。もし、そういう読者がいたら、なぜ「インダス文明の盛衰」なのに日本史を語っているのか、と疑問に思うかもしれない。また当初からの読者であっても、ここに至って古代インドから時間的にも空間的にも遠く離れた日本の歴史を語っていることに、違和感を持つ読者もいるかもしれない。ここで一言お断りしておこう。これは『逆説の世界史』全体のコンセプトに関わることだからだ。

世界史という形で歴史が語られるようになったのは、人類の長い歴史全体から見ればごく最近のことである。古代最高の文明の1つであったエジプト文明から見ても、オリエントの覇者となったアレクサンドロス大王の時代も、人類は「世界は1つ」という感覚は持っていなかった。

スペインとポルトガルが世界を股に掛けて大海洋帝国を築いた頃から、そうした感覚が生まれ、イスラム帝国の成長と、それに対抗するキリスト教勢力つまりヨーロッパ諸国の発展があって、ようやく、世界というものが様々な民族の坩堝であり、それぞれの宗教および歴史を持っているという感覚が生まれてきた。しかし、中国を中心とした東洋社会と西洋社会との交流は極めて少なく、まだまだ西洋史と東洋史は書けても、世界史というまとまった歴史を書くような状況ではなかった。

その後、ヨーロッパ(後にアメリカ合衆国もこれに加わる)を中心とした白人キリスト教国家が科学と資本主義の発展によって、それまで世界を席巻していたイスラム帝国、そして東洋の覇者であった中国を制圧することによって、ようやく「世界は1つ」になり、世界史が書けるような状況にはなった。

だが、その世界史とは勝者である白人キリスト教徒によって書かれたものだ。当然、彼らの優越感に基づく不公平さがあることも否めない。例えば既に述べたように、数学や哲学などの優れたギリシア文化、ヘレニズム文化は、中世ヨーロッパではキリスト教に反するものだとして弾圧されていた。それを保存および改良して後世に伝えたのはイスラム帝国であったが、その最後の代表であったオスマン帝国がキリスト教勢力の攻勢で没落すると共に、その事実は忘れ去られた。「1、2、3」がローマ数字でもなくヘブライ数字でもなくアラビア数字であるのに、白人キリスト教徒がその由来をよく知らないのは決して偶然ではない。「勝者の歴史」による意図的な情報操作である。

また、現在の中国は決して先進国ではないが、中世においてはヨーロッパよりはるかに進歩した、世界の最先進国であったという事実が忘れ去られているのも決して偶然ではない。

そうした勝者の視点を排して、もっと公平で客観的な世界史を構築しようというのがこの『逆説の世界史』の目的である。実はその姿勢が最も鮮明に理解しやすいのが、今まさに述べている日本史の部分なのである。

世界で初めて「先物市場」を始めた国はどこか?

現代は資本主義の時代と言っていいだろう。そうではなかったソビエト連邦は崩壊し、中華人民共和国も資本主義の要素を取り入れざるを得なくなっている。その資本主義が人類史上初めて生まれたのがイギリスであり、それを受け継いで最も発展させたのがアメリカ合衆国であることも、多くの人々の常識だろう。そして、イスラム教世界でもなく儒教世界でもなくキリスト教世界だけで、なぜ近代資本主義が誕生し発展したのか、その疑問に答えたのがマックス・ウェーバー(Max Weber/1864〜1920年)の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism)』であることも、常識とまでは言えないにしても、多くの人の納得する通説であることは間違いないだろう。

ここで1つ質問をしよう。

資本主義のシステムの中に先物市場というものがある。先物市場とは、文字通り先物取引(futures contract)を行なうもので、価格や生産量が常に変動する農作物や石油あるいは有価証券などの未来の売買を前提に、決められた価格での取引を保証するものであり、将来の極端な値上がりや値下がりに対するリスクヘッジを役割とする。要するに、極めて高度な資本主義のシステムの一環である。

この先物市場、世界で最初に始めたのはどこの国か? 資本主義発祥の地イギリスか、それとも資本主義が最大に発展したアメリカか? それともフランス? ドイツ? どれも正解ではない。ここで正解を、アメリカの経済学者でノーベル経済学賞受賞者でもあるマートン・ミラー博士(Merton Howard Miller/1923〜2000年)に答えてもらおう。

先物市場は日本で発明されたのです。米の先物市場が大阪の真ん中の島で始まりました。それは現代的な取引制度を持った最初の先物市場でした。それは現代の先物市場が持っているすべてを完備した先物市場でした。
(『マネー革命 2 金融工学の旗手たち』相田洋著 NHK出版刊)

ちなみに、実際に先物市場が日本で展開していた年代だが、ミラー博士は「1730年ごろ始まった」と述べている。また、これはミラー博士の説ではないが、後にアメリカのシカゴの先物市場で使われた「手信号」も、似たようなものが既に日本で使われていたので、これを実見したオランダ商館員(当時、ヨーロッパ人として唯一日本国内を見聞することができた)がヨーロッパに伝え、最終的にアメリカに伝わったのではないかという説もある。明確な記録は残っていないのだが、決してあり得ない話ではない。

問題はマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だ。

ここで展開された理論つまり「キリスト教、特にプロテスタントが資本主義誕生の母胎となった」という理論について異を唱えるつもりはない。だが、18世紀の日本は、16世紀あたりに盛んであったスペイン、ポルトガルつまりカトリック勢力による侵略を警戒するため、キリスト教が厳禁され、公式には1人の信者もいなかった。実際にはオスマン帝国占領下のギリシアのキリスト教徒のように、日本にも少数の隠れ信者はいた。しかし、公式の場で活動することは一切なく、社会に何の影響も与えることはできなかった。だからマックス・ウェーバーの理論が100パーセント正しいなら、そういう状況の中で、先物市場がイギリスやアメリカに先駆けて生まれることは絶対にあり得ないはずだ。

つまり、これが「勝者の歴史」の持つ欠点なのである。もちろん、ウェーバーは儒教や道教それにヒンドゥー教と仏教までも視野に入れて研究していた。彼がもっと長生きしていたら、極東の島国で世界初の先物市場が生まれたという衝撃の事実に気がつき、これを基に理論に修正を加えたかもしれない。

しかし、理論の修正は結局行なわれなかった。行なわれなかったからこそ、誰かがそれを引き継がねばならない。具体的には、キリスト教とはまったく無縁の文明でも資本主義は誕生しうる、ということだ。その実例が日本である。

アメリカの証券取引所
  • 1
  • 2
トップページへ