『逆説の世界史』井沢元彦

第131回

2018.10.15

第五章|多神教文明の興亡Ⅱ

第1話 インダス文明の盛衰

16インドにおける「一神教イスラム教vs多神教」の攻防

ナーランダー(Nalanda)にある「仏教大学」の遺跡に行ってきた。ゴータマ・シッダッタつまり釈迦が悟りを開いたとされる、ブッダガヤ(Buddh-gaya)の北東に位置し、現在のインド共和国(the Republic of India)の北東部、行政区ではビハール州(Bihar)にある。

ここに紀元5世紀頃に創設された、古代世界における最大の仏教「大学」があった。学生1万人以上、教師も1000人を超えたといわれている。石造りのビルディングのような高層の建物が「本部」で、他に複数の寺院、僧院が付属し、図書館の蔵書は500万冊に及んだようだ。インドに限らず世界レベルで見ても、最大の教育施設だっただろう。

中国唐代(618~907年)の僧で、膨大な大乗仏典をサンスクリット語から漢訳した「世界最大の翻訳王」玄奘(602~664年)も、630年にこの地にたどり着いたが、当時はマガダ国(Magadha)の領域であった。玄奘はこのナーランダー「大学」に入り、サンスクリット語を学び、仏典を学び直した。そして645(643年説も)年に帰国して膨大な翻訳事業を成し遂げた。

この大学は12世紀のイスラム教徒のインド侵入そして征服によって破壊された。よく「完全に破壊された」などと事典や文献に書かれているが、写真をご覧になればお分かりのように建物の外郭はかなり残っている。仏龕に浮き彫りにされていたとみられる仏像は念入りに削り取られているが、これは偶像崇拝を厳しく禁じたイスラム教徒が侵入者だったからだろう。図書館の本もすべて焼かれたらしい。しかし、爆薬がない当時、極めて堅牢に造られた石造建築物を徹底的に破壊して更地にすることは、技術的に困難だったようだ。

改めて、インドにおける宗教の歴史をまとめれば、まず古代インダス文明が衰退した紀元前13世紀頃、インドに侵入したアーリア人(Aryans)によりバラモン教(Brahmanism)を土台にした新しいインド文明が生まれた。そしてシバやビシュヌなど複数の神々への賛歌である『ベーダ(Veda)』が語られ、数百年を経てそれが『ウパニシャッド(Upanishads)』という教義になり、「ブラフマン(梵〈Brahman〉)」や「アートマン(我〈Atman〉)」などという、宇宙あるいは人間の根本的理念が生まれた。それらについてはこの編の前半で詳しく解説したところだ。

また、数百年の時を経て、インド亜大陸全体の生産性が向上し、農業のみならず商工業も発達するようになると、そうした経済的余裕や人的交流の中から、カースト制度で身分を固定するバラモン教に飽き足らず、新しい社会にふさわしい思想を求める思想家が次々と生まれて来た。紀元前6世紀から5世紀にかけてのことで、ジャイナ教(Jaina)の創始者マハービーラ(Mahavira/生没年不詳)や仏教の創始者釈迦らがいた。その中で最も後世に大きな影響を与えたのが釈迦の創始した仏教であった。釈迦をリーダーとした出家僧の集団(サンガ〈samgha〉)が生まれ、その教えに帰依する在家の信者も多数出現した。

紀元前5世紀末に釈迦が入滅(逝去)すると、弟子たちが釈迦の教えを確認し合うために集まり(結集)、後に口誦によって伝承されていた教えが文字資料としてまとめられるようになった。これが仏典の始まりである。

しかし、入滅後、わずか百年足らずで、釈迦の教え通り個人の解脱を目指すことこそ仏教の本道だとする保守派と、そこから一歩踏み込んで大衆の救済を目指すべきだと考える革新派の意見が、調整できないほど対立するようになり、遂に両派は分裂した。これを「根本分裂」と呼ぶ。

長老が上座に着座することから保守派を「上座部」と呼び、革新派を「大衆部」と呼ぶのが一般的になった。

大衆部はそれまでの仏教では想定されていなかった大衆の救済を目指し「大乗仏教(Mahayana [Great Vehicle] Buddhism)」を発展させた。大乗とは「大きな乗り物」転じて「多くの大衆を救う教え」という意味であって、大乗仏教を自称した人たちが、従来の個人の解脱を目指す仏教を「一人しか乗れない小さな乗り物=救済対象の小さい劣った仏教」として蔑んだ言葉が「小乗仏教(Hinayana [Lesser Vehicle] Buddhism)」である。20世紀の半ば、この言葉は仏教徒同士の国際的合意によって使うことが禁止されるようになった。結果、大乗仏教側からそれまで小乗仏教と呼ばれていたものは「上座部仏教」と呼ばれるようになった。

紀元前約3世紀になると、インド亜大陸をほぼ制覇したマウリヤ朝(Maurya/BC317頃~BC180年頃)のアショカ王(Asoka/生没年不詳/在位BC268頃~BC232年頃)が、自ら信者となり仏教を大いに奨励したため、仏教は国教的地位を得た。そして、大乗仏教はシルクロードを伝ってチベットや東アジアの中国に伝わり、朝鮮半島経由でシルクロードの終着駅の日本まで伝播した。また、上座部仏教はスリランカから海上ルートを伝ってシャム(現在のタイ)、カンボジア、ビルマ(現在のミャンマー)など、東南アジアの国々に伝播した。

それ以後はチベット、中国、朝鮮、日本、シャム、カンボジア、ビルマでは、いずれも国教か国教に準じる地位を獲得し大いに広まったにもかかわらず、「原産地」のインドでは12世紀頃のイスラム教徒の侵入および征服によって、近代に至るまでほぼ壊滅状態となってしまったのである。

仏教がインドで衰退したのは、イスラム教徒の侵入および征服が決定的な原因なのだろうか?

一見そのように思われる。特に東南アジアのエリアで仏教が盛んに行なわれた国々には、その後も基本的にはイスラム教徒の侵入および征服という決定的な仏教への破壊行為がなかった。一方のインドはまさにイスラム教徒の標的となった。既に『逆説の世界史』第2巻「一神教のタブーと民族差別」で述べたように、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの「神を1つしか認めない宗教」である一神教はいわゆる「多神教」の存在を許さないし、「神は1つ」であるが故に、別の一神教の存在も許さない。

そもそも「多神教」という言葉は一神教の世界の辞書にはない。「神は1つ」であるからだ。従って、イスラム教徒から見れば、ヒンドゥー教や仏教のように複数の神あるいは絶対者の存在を認める宗教は「神でないものを神だと崇めるニセモノ」であり、抹殺するのが正義ということになる。だからこそ、インドに侵入したイスラム教徒はナーランダー「大学」をはじめとする仏教の施設を徹底的に破壊した。

このあたり、かつて地球上に存在したソビエト連邦(the Union of Soviet Socialist Republics)という共産主義、つまり無神論を国是とする国家が、キリスト教の教会や文化遺跡を徹底的に破壊しようとしたのと、表面上はよく似た現象である。ソビエト連邦にとって「宗教はアヘン」つまり民衆を惑わす毒であった。当然、教会は「アヘン製造工場」、神父や牧師は「アヘン密売人」ということになる。だから根絶やしにするのが正しいのであって例外は認めてはいけない。

仏教大学の遺跡(インドのビハール州ナーランダー)
  • 1
  • 2
トップページへ