1 瀧原宮 別宮 大紀町滝原

 瀧原宮たきはらのみやは、「とおのみや」と呼ばれます。
 「遠」宮ではなく、「遙」宮と書く瀧原宮は、伊勢を流れる宮川を約四十キロさかのぼった山間に鎮まります。天照大神あまてらすおおみかみをまつる内宮ないくうから最も遠いお宮です。しかし、「遙」という字をあてたのは、単に距離だけでなく、遥かな地から拝む、遥拝ようはいの地という意味をもっているのでしょう。
 紀伊半島の大台おおだい山系に続く瀧原宮の森は深く、その一角に白石が敷かれ、白い木肌をたたえた檜のお宮が建ちます。太古の昔、神祭りは社殿ではなく、森の中の聖なる地に依代よりしろを立て、神の降臨こうりんを祈ったといいます。瀧原宮はそうした原初の神祭りを思わせました。この宮が時空を超えた「遥か」な空気をまとっているのは、内宮より以前に天照大神が鎮まったというもと伊勢≠フ伝承をもっているからかもしれません。
 今から二千年前。
 皇室の祖先につながる天照大神は、天皇の宮殿にまつられていました(同床共殿どうしょうきょうでん)。それが、第十一代垂仁すいにん天皇の代、大和やまと国(奈良県)から伊勢へおうつりになりました。皇女の倭姫命やまとひめのみことが大神に仕える「御杖代みつえしろ」となり、大和から伊賀(三重県西部)、近江おうみ(滋賀県)、美濃みの(岐阜県)を巡り、そして伊勢の五十鈴川いすずがわの川上の地にたどり着きます。その旅は、倭姫命巡幸じゅんこうと呼ばれました。伊勢神宮鎮座譚ちんざたんとして『日本書紀』に記され、さらに鎌倉時代に成立した『倭姫命世記せいき』に詳しく綴られます。
 『倭姫命世記』には、伊勢国を南に下ってきた倭姫命の一行は、宮川河口に磯宮いそみやをまつり、そののち、船で川をさかのぼったとあります。上流部で川を渡ろうとしますが、砂をも流す急流に阻まれ、困っていると、真奈胡まなこという土地の神が出迎えます。無事に川を渡ることができた倭姫命は、真奈胡神をまつる御瀬社みせしゃを定めました。それが宮川の岸辺にある神宮百二十五社の一つ、多岐原たきはら神社の伝承です。
 多岐原神社前から道を下ると、宮川の河原に出ることができます。河原に立つと緑の川面がまぶしく、対岸の切り立った崖には小さな滝が流れ下るのが見えます。ここは伊勢から熊野三山へ向かう熊野古道の三瀬みせ の渡しがあったところ。倭姫命もこの河原で宮川を渡ったといいます。岸辺の木を仰ぎ見ると、手の届かない高いところになにやら引っかかっていました。先日の洪水の爪痕とか。今では上流にダムが設けられ、穏やかな流れですが、大雨が降ると一転、水嵩を増し、今も暴れ川の片鱗をのぞかせるのです。
 倭姫命一行はさらに進み、うるわしい土地にたどり着きます。倭姫命は、尋ねました。
 「国の名は何ぞ」
 「大河の瀧原の国」と真奈胡神は応えます。
 倭姫命に同行した宇太うた(宇陀)の童女、大宇祢奈おおうねながその地の荒草を刈りはらって、新宮を造りました。それが、瀧原宮の由緒です。
 私は、瀧原宮でわからないことが二つあります。ひとつは、瀧原宮と並び立つ瀧原ならびの(並)みやが同じ天照大神をご祭神とするのです。一般的には、内宮の正宮しょうぐう別宮べつぐう荒祭宮あらまつりのみやのように、正宮の天照大神の和御魂にぎみたまに対して、荒祭宮は大神の荒御魂あらみたまを分けてまつります。外宮も同じように、外宮神域内の多賀宮たかのみや豊受大神とようけおおみかみの荒御魂をまつっています。けれど、この並宮は違うのです。八〇四年に伊勢神宮から朝廷に提出した文書『皇太神宮儀式帳こうたいじんぐうぎしきちょう』には荒御魂と書かれておらず、またご神体も不明なのです。天照大神をご祭神とするお宮が二つ並ぶこと。これは何を物語っているのでしょうか。
 もう一つは、百二十五社で唯一ここにだけある、御船倉みふなくらという建物のこと。これも遷宮のたびに新しく建て替えられます。
 十数年前になりますが、自ら書いた旅ガイド本を古老の郷土史家に贈呈したところ、瀧原宮の御船倉について言及していることを褒めてもらったことがあります。それ以来、御船倉には注目していました。
 確かにこんな山中に船倉とは意外ですが、船とは、古くは「器」という意味があります。ご神体を納める箱を御船代みふなしろと呼ぶのもこのためです。遷宮後に古い御船代を納めた倉と考える一方で、地元では倭姫命が乗った船という伝承が根強く残ります。贈呈したガイドブックにもここまでは書いていました。
 さらに地名から興味深いことがわかりました。宮川と支流の大内山川が合流する地にある船木ふなきという地名は、倭姫命が巡幸の際、船が破損し、この地で木を求め修理したことに由来するといいます。船木は、川の船運による材木の集積地として栄えましたが、古代の船舶用木材を調達した船木氏の存在を指摘する研究者もいるのです。船木氏の拠点だったのか、あるいは拠点はもっと海辺でその勢力範囲だったのか、その船木氏が瀧原宮のご神体を納める御船代を造っていたのではないか、他社にはない御船倉についての一つの考察です。豊かな木材資源を宮川で運んだ人々の姿が目に浮かびました。山間のこの地は決してひなびていたわけではなく、材木の流通で開けていたに違いありません。御船倉をよくぞ書いたと褒めてくれた古老は船木氏の存在を知っていたのでしょう。故人となった古老の温かい気持ちにふれたように思いました。
 瀧原宮の鳥居をくぐり、杉の生い茂った参道を行きます。時折響く鳥の声。途中で御手洗場みたらし に下ります。緑の森から流れ出た川水に手をひたしていると、日常とは異なる静かな時間が流れています。四十四ヘクタールに及ぶ瀧原宮の森は今なお、緑が濃い。しかし、ここはただ山間の地というわけではなく、豊かな木にまつわる人々の歴史が厚く積み重なっているのです。そうした人々が神を遥かに仰いだ想いが、瀧原宮の森には受け継がれています。神話や伝承が生まれる「聖地」には、私たちが知らない歴史がまだまだあることを、この「遙宮」は教えてくれているのです。