5 風日祈宮・風宮 別宮 内宮・外宮の神域

 風の神というと、俵屋宗達たわらやそうたつの「風神雷神図屏風ふうじんらいじんずびょうぶ」を思い浮かべます。
 風神と雷神が一対に描かれた金箔の屏風絵。太鼓を携え、白い身体をしているのが雷神、風神は白い風袋を持ち、緑の身体で、ともに鬼の様相です。宗達は京都の三十三間堂の風神雷神像などを参考にしたそうですが、本家よりもこちらの方が空を縦横に駆け回るような躍動感に満ちています。江戸時代の画家にとって風神と雷神は、力強く、また自由でもあったのです。
 風の神は洋の東西を問わず、神話に登場します。
 ギリシャ神話には、北風のボレアス、西風のゼフィロス、南風のノトスという兄弟の風神のほか、さまざまな風を袋につめて、時季にかなった風を送るという風の支配者アイオロスもいます。インド神話の風の神は、風天と呼ばれ、名誉や福徳などを与える存在でしたが、仏教が入ってくると北西の守護神になり、胎蔵界曼荼羅たいぞうかいまんだらには、髪は白く、赤身で甲冑をつけた老人に描かれています。中国では風伯ふうはくと呼ばれ、風の字が鳳凰ほうおうの「鳳」に似ていることから翼のある鳥の姿をしているとされます。
 日本では、男と女の神さまが一対でまつられています。
 級長津彦命しなつひこのみこと級長戸辺命しなとべのみことといいます。
 神話では、伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冉尊いざなみのみことが今の日本列島にあたる大八島国おおやしまのくに≠生んだ後、今度は神々を生むのですが、最初に十神、次に八神、その次に生まれたのが級長津彦命でした。
 伊勢神宮には、風の神をまつる別宮が二つあります。
 ツキヨミノミコトをまつる別宮も二つありますが、これは明治以前、内宮ないくう荒木田あらきだ氏が、外宮げくう度会わたらい氏が代々、神官を務めてきたためなのです。現在は、同じ神職が祭典を行いますが、以前は神官が異なるために祭典も別々に行われました。そのため同じご祭神を内宮と外宮それぞれにまつったのです。表記が異なるのは明治以降、わかりやすくするために区別したからです。
 内宮は風日祈宮です。
 宇治橋を渡り、参道の神楽殿かぐらでんから右に折れると、島路しまじ川に架かる橋があります。宇治橋を小さくしたような木橋は、風日祈宮橋といいます。短く風宮橋とも呼ばれています。
 この橋も平成二十一年に宇治橋に続いて、新しく架け替えられました。神職や揃いの半被はっぴを着た地元の人々が渡り始めをしたのが昨日のことのように思われるのは、いまだに清々しい佇まいを留めているからでしょうか。
 橋からは眼下に流れる島路川が、五十鈴いすず川に注ぎ込む合流点が望めます。五十鈴川の深い緑色の流れに、少し白っぽい色をした島路川がぶつかり、波を立て、渦巻いています。源流部が石灰岩質であるため、島路川は白っぽい色をしています。それにしても眼下に見る緩やかな流れからは想像もできない本来の川の力が、合流点では現れています。合流点は河合淵かわいぶちと呼ばれ、その近くの河原では、式年遷宮しきねんせんぐう遷御せんぎょの前日、参列する神職や新しく調ととのえた御装束神宝おんしょうぞくしんぽうすべてを祓い清める「川原大祓かわらおおはらい」が行われました。内宮神域のなかで最も清浄な川辺だからでしょう。
 風日宮橋を渡ると、杉の木立の中にお宮が建ちます。参道からひとつ川を渡るせいか、ここまでくると人の賑わいはありません。いつ参っても清々しい空気が漂うところです。
 カザヒノミノミヤとは舌をかみそうになりますが、風雨が順調であることを祈る「風日祈かざひのみ」という神事が稲の生育期間である五月から八月にかけて行われたことからこの名があります。現在は五月十四日と八月四日の二日間に行われます。日本では風神は農作と結びついたのです。五月の祭典では、小さな笠と蓑が供えられ、素朴な信仰をうかがわせます。
 外宮では、正宮の前から御池みいけに架かる亀石を渡ると、左手に風宮があります。こちらは池のほとりですが、どちらも水辺にあるのは似ています。
 風宮も風日祈宮ももともとは風神社、または風社といわれた小さな神社でした。それが鎌倉時代、二度にわたる蒙古襲来もうこしゅうらい(元寇)の際、大風を吹かせ、元軍を全滅させた功績として、ときの天皇から宮号を下されて別宮に昇格しています。文永十一年(一二七四)十月と、弘安四年(一二八一)五〜七月のこと。大風は二度の襲来いずれにも吹いたといいます。
 平成二十五年の式年遷宮の遷御の儀でも、内宮では新宮に御神体が遷る際、二度風が吹き抜けたといいます。神風の伊勢なのだと、思いました。