10 津布良神社 内宮末社 度会郡玉城町積良

 伊勢市を中心に、おおよそ二十キロ四方に点在している神宮百二十五社。その中で、内宮の摂社せっしゃ末社まっしゃが特に多いのが多気たき玉城町たまきちょうです。伊勢市の西隣、外宮げくうから宮川を越え、緩やかな丘陵のふもとに広がる田園地帯で、ここには観光客の姿はありません。のどかな農村の風景の、ところどころに見えるこんもりとした緑の森が、神宮百二十五社や地元の神社であったりするのです。
 内宮から離れた田園地帯になぜ、伊勢神宮ゆかりの百二十五社が格別に多いのかというと、内宮の神主を務めていた荒木田あらきだ氏の一族がこの地域を開墾し、住んでいたからです。今では、神宮司庁の神職が内宮・外宮の祭典を執り行いますが、明治時代までは、内宮は荒木田氏、外宮は度会わたらい氏が代々、神主を世襲していました。荒木田の名は、新しく開墾した田に由来します。天智、天武天皇の頃に移り住み、玉城の地を開墾し、そこから祭典を行うために通っていたようです。
 JR参宮線の外城田ときだ駅から南へ約三キロ。蚊野かの神社、朽羅くちら神社、田乃家たのえ神社の森を経て、国束くづか山の山麓に「つむろ」または「つぶら」と呼ばれている積良の里があります。集落と字は異なりますが、同じ名前の「つぶら」神社は、田の中のこんもりとした丘に建ちます。江戸時代に造った溜池から、坂道を登ると、静かな山里のなかでも、さらに奥まった場所という感じがします。鳥居を入ると、末社ながら思いのほか広く、しっかりと石垣が施され、一段高まった地に社殿が建っていました。格式が漂う神域です。
 ご祭神は、津布良比古命つぶらひこのみこと津布良比売命つぶらひめのみこと の男女の神さま。こういう男女一対の神さまを 対偶神たいぐうしん と呼びます。田園地帯にまつられる神さまは農耕に関係する水神が多く、ここのご祭神も 大水神おおみなかみ御子みこにあたります。
 この地を、民俗学者の折口信夫おりくちしのぶ、柳田國男が訪れたのは昭和二十五年のこと。柳田氏は後に、『山宮考やまみやこう』で荒木田氏の祖先祭祀さいし(祖先を祀る祭典)を行なった場所にある神社として注目しています。
 このあたりは、国束山脈が伸びるなだらかな丘陵地で、その北のふもとがここ積良、東のふもとに山神、その先に矢野の集落があり、それぞれに津布良神社、鴨神社、田乃家たのえ神社と百二十五社が創建されています。
 またこの三つの集落は、伊勢神宮に鳥名子舞となごまい という歌舞をかつて奉納してきたところで、鳥名子組を中心に団結してきた歴史をもちます。鳥名子舞は、子ども四人が組んで舞うもので、「ひよこ」のような鳴き声や所作を行なうことからこの名があります。
 柳田氏は、山麓の津布良神社のあたりで、内宮の神官の荒木田氏は祖先をまつる祭祀「山宮祭」を行ない、その墳墓に神社が建つという考え方を示しました。
 『山宮考』に強い感動を受けて、民俗学者の谷川健一氏が津布良神社に足を運んだのは、昭和五十一年三月。その頃は、まだ地元の人々により、山宮祭が行なわれていたといいます。
 荒木田氏は十、十一世紀に、内宮前の宇治地区へ移りましたが、その後は、この山宮祭を行なうために、一族はわざわざここへ足を運んでいたことが江戸時代の文献に出てきます。それが昭和の後半まで続いていたとは、いかにこの地域の人々が荒木田氏の祖先の祭祀を重んじていたかがうかがえます。のどかな農村に住まう人々の崇敬の念は深いのです。
 山宮祭とはどのような祭典なのでしょうか。旧暦三月の吉日に行い、神前に木の芽のあえ物を供えたことから、「木目きのめ神事」と呼ばれました。祭場には、建物はなく、石段の上に数本の古い榊が枝を張っていて、その前に供物を献じたらしい跡があったと谷川氏は『日本の神々』に記しています。
 先人の書物を読んで、ここを訪れた人も多いのでしょう。私も、最初に来たときは『山宮考』を知りませんでしたが、厳かな空気は感じ取っていました。そして、『山宮考』を読んでからは、いっそう思いを強くして参るようになりました。
 伊勢神宮に仕えた皇女こうじょが暮らした斎宮さいくうには、仏教用語や病気や死にまつわる言葉を言い換える「み言葉」がありました。谷川氏は「つぶら」が、忌み言葉に関連しているのではないかと記しています。忌み言葉で墓は「つぶれ」。これは土群つちくれが転化したもので、丸い古墳に由来しているといいます。「つぶら」という言葉の響きは、この地域でも珍しいもので、内宮神主の荒木田氏の関わることとも考えられます。
 こうした秘めた歴史をもつ神社があると、百二十五社参りが一層、興味深くなります。
 今では、氏神うじがみ さまというと、地域の神社を指すようになりましたが、古代にあっては、同じ氏をもつ人々が同じ祖先を神さまとしてまつることを指しました。
 古い信仰を、この山里の神社は残してもいたのです。